抄訳

「メディア・リテラシー」研究方法論のデザインと運営


加藤 文俊(龍谷大学国際文化学部)



1.はじめに

 近年、文系学部・学科において「情報メディア教育」が重視されるようになり、コンピュータの基本操作に関わるスキルは、一つの「前提能力」として位置づけられるようになった。同時に、異文化間コミュニケーションや「国際文化」といった学際的なテーマを取り扱う学科においては、メディア環境の変化を前提としたものの見方や表現方法について理解することが重要だといえる。  筆者が1999年度春学期に開講した「社会調査分析法V」では、TVのコマーシャル、広告、ファッション、看板、商品パッケージ、CDのジャケット、報道写真など、さまざまなメディアを「読む」ための方法について講義と実習を行った。最近の言葉では、「メディア・リテラシー」に関する研究方法論ということになる。
 本論文では、「社会調査分析法V」の講義デザインおよび経過を紹介するとともに、これからの「情報メディア教育」のあり方について考えてみたい。授業の概要は以下の通り。
[授業科目名] 社会調査分析法V
[科目が開講されている学部・学科名・単位数] 国際文化学部・国際文化学科・2単位
[授業形態] 選択(3年次春学期)・週1回
1クラス30名程度
[授業で使用した情報教育機器の種類] PC(Mac OS)、ファイルサーバ(Windows NT)、
インターネット(イントラネット)環境
[利用環境] コンピュータ室、1人1台使用
[情報教育機器の利用頻度] おもに開放時間


2.授業の主旨およびデザイン

 「メディア・リテラシー」に関する考え方はさまざまであるが、その本質を理解するためには、メディアを「読む」だけでは十分でない。つまり、〈メッセージの「送り手(メディアの作り手)」を考えながら「読む」〉ばかりでなく、〈メッセージの「受け手(メディアの読み手)」を想定しながら「つくる」〉ことも重要である。
 「送り手」の意図やメッセージを「読む」ことを通じて、メディアをデザインする際のヒントが生まれる。一方、メディアを「つくる」プロセスのなかで、「読む」ためのセンスが養われる。「読むこと」と「つくること」という、相互に関連した二つの活動を経験することによって、メディアの意味をより深く考えることができるはずである。
 本授業ではこうした問題意識にもとづき、講議や演習に加え、「雑誌」をつくるプロジェクトをスタートさせた(授業の経過については表1を参照)。
 まず、通常の授業時間には、メディア研究のためのものの見方や方法論について講義と演習を行った。これは、コミュニケーション論やメディア論と呼ばれる分野と関係が深いが、社会学や経営学(マーケティング)などのコンセプトや調査法も、関連が深いと思われる内容については採り入れながら授業を構成した。通常の授業は比較的小さな教室で主にビデオを使って講義・演習を行い、後半の数回については、コンピュータ室でデータの編集・レイアウトについて実習を行った。
 「雑誌」を作成するプロジェクトは、通常でいう期末レポートにあたるものだが、作成のプロセスはできる限り「出版」に関わるメタファーで語ることにした。具体的には、講義・演習と並行して、受講者がそれぞれ「ライター」という立場で各自のテーマに関する調査・取材を行い、執筆・編集・レイアウトという一連の作業を進めた。最終的にこれらの記事を編纂し、『ピスタチオ』というタイトルの「雑誌」を作成した。タイトルは授業中に全員から出された候補のなかから選び、表紙のデザインは、図案を募りコンペ方式で決定した(図1)。
 メディアについて考えるためのトレーニングとして、それぞれの「ライター」には、調査・取材結果を見開き(場合によっては4、6ページ)でまとめてもらうことにした。つまり、各自に与えられたのは、A4判の見開き(大まかに40p×30p)という空間である。この課題を通じて、受講生は自分の考えを記事にするために、データや情報をどのように要約し整理するか、文字と画像をどのようにレイアウトするか、といったデザインに関わる一連の判断を行う。これによって、「作り手」と「読み手」の双方の立場を考えることになる。
図1 完成した「雑誌」:『ピスタチオ』の表紙


3.授業の評価・ふりかえり

 こうした授業の内容および運営は、筆者にとって初めての試みであったが、学期を通じての成果を「雑誌」という具体的な形にすることで、その主旨が比較的伝わりやすかったようである。学期末に行ったアンケート調査で、「雑誌」をつくるというプロジェクトについては以下のような感想・意見があった。  上記はごく一部であるが、多くの学生が「読み手」を想定することを通じて、自分自身の表現や媒体の性質について意識しながら作業を進めたことがうかがえる。
 「雑誌」をつくるという試みは、教員が(一方的に)学生の書いたレポートを読む(つまり、学生は担当教員が読むことを考えて文章をまとめる)という従来のやり方に対する筆者の考えや疑問が反映されている。学生であっても、社会人であっても、何らかの考えや主張をまとめるからには、誰に読まれても恥ずかしくない(逆に、できるだけ多くの人に読んでほしいと思える)文章を書くことが重要である。調査を行い、その結果を「世に問う」姿勢が文章から伝わってくれば、おのずとメディアを「読む」態度も変わるはずである。わずか15週間というセメスターの中での作業はかなり制約されるが、人に「読まれる(見られる)」存在としての自分(社会的存在としての自分)を意識するきっかけになったのではないかと考えられる。「社会調査」の本質は、社会(潜在的な読み手)との関わりを意識することだという点も明示できた。また、一冊の「雑誌」として印刷・製本されることを想定すると、「雑誌らしさ」について関心を抱くようになり、内容と表現の方法(媒体)との相補的な関係を意識せざるをえなくなる。「雑誌らしさ」について考えることによって、「卒論らしさ」「報告書らしさ」を再認識することにもなるだろう。それは、体裁やレイアウトの問題ばかりではなく、自らの考えを表現する際のボキャブラリーやメタファー、さらにはストーリー構成の問題として理解されるべきものである。
表1 授業の経過
*はコンピュータ室での実習を含む。

4.おわりに

 これまで述べてきた通り、「雑誌」の作成を想定することで、「メディア・リテラシー」研究に関する方法論の特質を体験的に学ぶ環境を構成することができた。しかしながら、受講者は「雑誌」が完成したという達成感で満足しがちであるため、今後の課題として、学期を通じて進めてきた具体的な活動のプロセスや成果と、その背後にある問題意識との関係を明示することがきわめて重要である。これは、どのような形で「ふりかえり」を行うかという問題であり、完成した「雑誌」を自らが「読む」ことによって、この授業の意味・意義を確認できるような工夫が必要だと考えられる。

(1) 本論文の一部は、『ピスタチオ』のまえがきを部分的に
加筆・修正したものである。
(2) 『ピスタチオ』は、龍谷大学1999年度
「FD・教材等研究開発費(プロジェクトA)」で、印刷・製本した。
(3) 学生による授業評価アンケートでは、記述内容を論文等で
公開することの可能性について、あらかじめ学生の同意を得た。
誤字・脱字等については筆者が修正したが、
学生の記述通り記載した。

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