授業改善奮闘記 −ITによるファカルティ・ディベロップメント−
小田中 章浩(岡山理科大学工学部助教授)
私は岡山理科大学で、一般教養科目としての「文学」と「文章表現法」を担当しています。「文章表現法」の方は、要するに論理的な文章の書き方を教えればよく、幸いにそのための方法論やテクニックを持っていましたので特に問題はありませんでした。困ったのは「文学」です。なぜならこれは、文系の大学の一般教養で、「科学」について教えろというに等しいからです。ちなみに、前任者のシラバスを参照すると、上田秋成を中心とした江戸文学について論じられていたようでした。もちろん理科系の学生が江戸の読本に関する知識を得るのが悪いことだとは思いませんが、それで「文学」のなんたるかを理解するのは少し無理があるかもしれません。
まず私はプロップやダンテス、レヴィ・ストロースを中心とした物語の構造論を扱ってみました。これは、簡単にいえば、物語というのは登場人物とシチュエーションの順列組み合わせによって変形可能だという理論で、最近のRPG(ロール・プレイング・ゲーム)とも通じるものがあり、理系の学生にも興味があるだろうと考えたのです。確かに一部の学生は大いに関心を示してくれました。しかし、そもそも文学理論と文学作品は違いますし、前者がわかったからと言って後者への理解、あるいは関心が深まるというものではありません。
あれこれ模索していた頃、ふと思い立って学生に課題を与えて自由に作文を書いてもらい、その中のおもしろいものを翌週の授業までに印刷して配布するという方法を取ってみたところ、これが非常に好評なのです。さらに学生から、他の学生が書いた作文に「コメント」を付けてみたいという要望が出され、これまたおもしろい作文をプリントすると、もっと学生の反応が良くなりました。
さて、こうした形式の授業を行う場合、最大の問題は教師の労力をいかに軽減するかということです。最初の数年間は、手書きで提出された作文をこちらがアルバイトの学生も使ってパソコンに入力していました。しかしこの問題は、学生が電子的な媒体によって課題を提出してくれれば解決します。特にこのスタイルの授業を始めた後、おもしろい作文は(もちろん学生から掲載許可を得て)ホームページに掲載することにしましたので、その意味でも便利です。そこで、昨年の前期から作文はすべて電子メールで出してもらうことにしました。
こちらが課題を受理、編集する方法は、まずメールのsubject欄に予め決められた課題番号(クラス名、学生番号、課題番号を組み合わせたもの)を入力してもらい、メールの本文の部分に作文を記入します。届いたメールは、subject欄を参照することで自動的に分類され、メールのヘッダとボディ(本文)を切り離して指定するフォルダに収容されます。提出された作文を印刷したい場合は、TeXを使って整形したファイルをプリンタで出力します。また、送ったメールが届いたかどうか学生が確認できるように、「受理した課題」というサイトを設け、届いたメールの課題番号が順次表示されるようにしています。以上を処理するプログラムは、基本的にプリントアウト以外はすべて自動で、Linuxのシェルスクリプト(一部Perl)によって書かれています。
受講生が書いた作文については、残念ながらここでは字数に限りがあるため紹介することはできません。ちなみに2002年後期の「文学」では、一時期放送された某CMの内容をもじって「学生さんは〜」シリーズという課題を出してみました。たとえば「学生さんには『愛』がない(お金も)」、「学生さんは、ふまじめだ」「学生さんは本が好き(なわけないだろ)」といった調子です。もちろんこれらの題は教育的効果を考えてひねってあります。すると、こうした題にまともに反発して腹を立てる者、真面目に考え込んでしまう者、思いがけない告白をする者、こちらの意図を見抜いて悪のりし、教師が思わず笑ってしまうような作文を書く者などが現れます。提出された作文については、短いものですが、全員に簡単なコメントを書き加えて返却するようにしています。また、プリント印刷およびホームページ掲載された作文については、授業で教師が感想や意見を述べます。選ばれる作文は、必ずしも良く書けているものだけでなく、過激な(または独りよがりな)意見、あるいは手抜きをした作文も掲載して、論評の対象とします。その上で、受講者は紹介された作文にコメントしていきます。こうして、言葉を通じて相手に働きかけることを実感してもらおうというのが、この授業の趣旨です。
そもそも「文学」とは、意志の伝達といった実用的な意図を離れた立場からの、言葉を使ったコミュニケーションです。そして、たまたまその中の非常に優れたものを、われわれは「文学作品」と呼んでいるわけです。しかし「文学」が、常に作者から読者への一方向的なコミュニケーションであり、「鑑賞」でなければならないという理由はありません。わが国における連歌や俳諧といった「座」の文学の伝統を引くまでもなく、読み手=書き手という参加型の文学があってもよいはずです。また、最近の文学をめぐる状況は、読者よりも文学賞への応募者の方が多いのではないかという疑問が示しているように、実質的にこれに近いものになっています。
最近の(とは限りませんが)学生は付き合いの範囲が非常に狭く、ごく小さな友人の輪を除けば同じ学科、同じクラスでも他の学生のことをまったく知らないのが普通です。ましてや大学全体ともなれば、学生にとっては自分と無関係な他人の集合体でしかありません。しかし私が担当する「文学」の授業は全学共通の一般教養科目ですので、学部、学科の違いを越えて学生が受講してきます。さらに入試制度が多様化している結果、出身地をはじめとして、(あまり良い言葉ではありませんが)高校のレベル、家族構成や人生経験など、実にさまざまな学生が入学してきます。彼らが「文学」を受講し、そこで紹介される作文(基本的に匿名で、学部名しかわからないようになっています)を読むと、自分たちの周囲にこんな考え方や生き方をしている人がいるのかと、新鮮な衝撃を受けるようです。その中で言葉によって自己を表現し、見知らぬ他人に自分の価値観や考え方を理解してもらうというのは、それだけで一つの訓練になります。またこの授業では、単に他の学生が書いた文章を読むだけでなく、準備段階で教師が用意したさまざまな参考資料に触れることによって、本や活字の世界への興味を持ってもらうことも意図しています。こうした行いは、「古き良き」時代の大学生が下宿などで友人と人生論を戦わせていた場面の、電子的メディアを使った再現であるともいえます。その意味で、この授業は最も本来的な意味での「一般教養」の授業かもしれないと考えています。