リテラシーの概念の拡大について Expanding the Concept of Literacy [2003 Vol.12 No.2]

翻訳

リテラシーの概念の拡大について
Expanding the Concept of Literacy

Elizabeth Daley*



 この原稿は、2002年にコロラド州アスペンで開かれたフォーラム「高等教育の未来」のシンポジウムで配布された論文の抜粋です。翻訳は、EDUCAUSEの許可を受けて行いました。
 原文はEDUCAUSEのホームページよりご覧いただけます。
http://www.educause.edu/ir/library/pdf/erm0322.pdf


 「リテラシーとは何か」、「リテラシーによって私たちは何ができるのか」と世間の人々に尋ねてみると、まったく同じような答えが返ってくる。一般にリテラシーとは、読み書きの能力、情報を理解する能力、そして考えを具体的、抽象的に表現する能力と解釈されている。ここで言う「読み書き」とは、「テキスト(書かれたり印刷されたりする文章)」の読み書きを意味している。
 人によっては、メディア・リテラシーやコンピュータ・リテラシーを時折思い浮かべるが、「メディア・リテラシー」はたいてい、テレビや映画がどのように視聴者を操るかを判断する能力と理解され、「コンピュータ・リテラシー」は一般に、様々な作業(例えばインターネットにアクセスするなど)を行うためにコンピュータを活用する能力と理解されている。また、人々に言語の性質についても質問してみると、言語によって様々な考えを概念化できる、情報を抽象化できる、知識を受け取り共有できる、という答えが返ってくる。あまりにも当たり前すぎて口に出して言う人はいないが、その根底にあるのは、言語とは「言葉」を意味する、ということである。
 25年前、『テレビ・危険なメディア(Four Arguments for the Elimination of Television)』[1]という本がかなりよく売れた。明らかに、そのような世界の未来像は実現しなかった。テレビは排除されていないし、テレビからコンピュータに至るスクリーンは、今では私たちの生活を支配している。この現実は認めなければならない。そこで私は、この本の題名にあるように、「リテラシー」の定義が拡大される四つの論拠を提案したい。
1. スクリーンのマルチメディア言語は、現代の日常語になった。
2. スクリーンのマルチメディア言語は、テキストに関係なく複雑な意味を構築できる。
3. スクリーンのマルチメディア言語は、テキストのそれらとは本質的に異なる思考方法、コミュニケーションと研究の方法、出版と教育の方法を可能にする。
4. 結論として、上記の三つの論拠に従うと、21世紀において本当にリテラシーのある人とは、スクリーンのマルチメディア言語の読み書きを身に付けている人を指すようになるだろう。
 これら四つの説は、南カリフォルニア大学アネンバーグ・コミュニケーション・センターのマルチメディア・リテラシー研究所(IML)で行われている研究の基本原理である。


1.スクリーンのマルチメディア言語は、現代の日常語になった

 私は同僚の教員たちに問う。「あなたが1300年ごろのイタリア・パドヴァに住み、大学生に教えていると想像してごらんなさい。あの偉大なパドヴァ大学の石壁の内側で、あなたはラテン語で講義をしている。しかし窓の下の通りを歩いている人々は、あなたの学生も含めて、イタリア語を話している。だから結局、その日常語はイタリアの純粋学問の世界でも受け入れざるを得なくなる(実際、それは受け入れられた)。」これを今日の状況に照らし合わせて簡単に言い換えれば、学生を含め多くの人々にとって、映画、テレビ、コンピュータ、オンラインゲーム、そして音楽が、現代の日常語の構成要素となっているということである。
 マス・リテラシーをまず初めに可能にしたのは印刷であり、それは非常に効果的であった。しかし印刷された言語を特別なものとして扱うと、印刷の基本的方法が開発されて以降、現在までに生まれてきたテクノロジー(録音、ラジオ、映画、テレビなど)の成功を無視してしまうことになる。人々にとってこれらのテクノロジーは、情報を受け取り、お互いにコミュニケーションし、楽しい時を過ごすための最も一般的な方法になっている。これらのテクノロジーで用いられる言葉遣いが、以来長い間にわたってどのように私たちの思考を侵してきたかは容易に理解できる。スクリーンから取り入れられた比喩は、日常会話のあらゆる場面でごく一般に使われるようになっている。例えば「close-up」は「徹底的な」とか「透徹した」と同義である。記憶が以前に「flash backする(急に戻る)」という表現もある。ある出来事を背景にはめ込むことを、それを「frameする」と言う。急いでいるときは「cut to the chase」という表現を使い、一つの話題から別の話題に移ることを「dissolve」とか「fade out」とか「segue」と言う。また「back-ground sound」という言葉もある。私たちは何時間もコンピュータの前で「スクリーン」を見つめ、それを共有している。学生たちは自分のアイデンティティを作り出す基本的要素の一つとして、直接感情に訴える音楽体験に慣れ親しんでいるし、また彼らはオンラインの世界で、何時間もコンピュータゲームをして過ごしている。要するに、私たちが人として共有する体験はたいてい、スクリーンの上に存在する画像や音声から得られるものなのである。


2.スクリーンのマルチメディア言語は、テキストに関係なく複雑な意味を構築できる

 南カリフォルニア大学では、高い評価を受けている映画・テレビ学部は賞賛され、羨望され、敬意を払われてはいるものの、大学の学部としては,何となく本当に認められてはいないように思われる。研究大学の世界では、この学部はやはり例外的存在なのだ。そのような学部があるという理由で全国レベルで高い評価を受けている大学はないし、またそういった学部が、例えば物理学部や英文学部のように、決定的に重要だと考えられることもない。
 このようにステータスに欠ける理由は、メディア・クリエーターやメディア学者があの「評判の良くない」エンターテインメントの世界を扱っているということだけでなく、さらに重要なことだが、この専門分野における彼らの研究では、印刷というものが重要視されていないためだと思う。彼らは、時間をベースとしたメディアの中で統合された画像や音声は、知識を創造し思想や情報を伝達することにおいて、テキストと同様に重要であり得る、と信じている。彼らの研究は、過去2000年の間広く支持されてきた前提を、最も基本的なレベルとして認めていないのである。つまり、印刷されたメディアを理解したり印刷されたメディアにより表現することが、リテラシーを持っている、拡大解釈すれば教養があることだという考え方を認めていないのである。
 数年前、同僚が私に『クロニクル・オブ・ハイヤー・エデュケーション』に載っていたある記事を送ってくれた。高名な美術史家であるその著者は、「学者たちは映像に対する根深い疑いを捨て、映像が実際は知的内容を含んでいることもあり、場合によってはテキストに匹敵する可能性もあるということを認識するときである」と主張していた。この記事は1930年代に書かれたものを抜き刷りしたものだと思うが、しかしこれは現代にも当てはまるものだった。これを読んだとき、マルチメディア・リテラシー研究所は映画・マルチメディアベースの言語である日常語という概念だけを擁護するのでなく、さらに重要なこととして、その概念の価値を擁護する必要があるだろうと私は実感した。場合によってはそのような言語が印刷とは明確な違いを持ち、印刷よりも利点を持つ可能性があるということを明らかにするのに、私たちは非常に長い時間を要した。
 スクリーンの言語は重要であると論じることによって、言葉や印刷を攻撃するつもりはない。しかし、印刷には印刷独自の技術的な偏りがある。印刷は文字による論述を支えるものではあるが、書物にはない様々な体験という意味においては価値がない。印刷は非言語的形態の思想や、文字によらない概念を扱うには不十分なのである。
 テキストと同様に、マルチメディアは思想や抽象概念、比較や比喩の展開を可能にし、それと同時に、人間の情緒的および審美的な感覚を引き付ける。同時に高品位のメディアは、その多種多様な方法によって確立したリテラシーを充実させ、利用し伝達するためのツールを与えるだけでなく、それ以上の役割をも果たす。アメリカの歴史における数々の重要な瞬間を明示した写真について、少し考えてみよう。例えば大恐慌を撮った写真エッセイ。第二次世界大戦の終結時にタイムズ・スクエアで女の子にキスしている水兵。ナパーム弾から逃げている幼いベトナムの少女。遺体に跪くケント州の大学生。それらはアイコンとして、現代のほとんどのアメリカ人にとって、もはや何の説明も要しないものになっている。もっとも、印刷されたテキストや口頭での説明があれば、それらの意味を補足し拡張することになるだろうが。しかし、たとえ私たちがそれらの写真が生まれた背景を知らなくても、それぞれの写真は強い意味を持ち、力強い感情を伝えてくるだろう。マルチメディアと映画は、時には言葉によって高められるが、その他の多くの要素――画像だけでなく、音声、Duration(タイマーのようなもの)、色彩、デザインなど――を同等のものとして受け入れる。それからまた、映画のような歴史的瞬間についてもちょっと考えてみよう。例えば初めての月面着陸。世界貿易センタービルに突っ込む飛行機。スクリーンの言語や力を使えないなら、このような重大な出来事を完全に共有しようとするとき、どうすればよいのだろうか。


3.スクリーンのマルチメディア言語は、テキストのそれらとは本質的に異なる思考方法、コミュニケーションと研究の方法、出版と教育の方法を可能にする

 啓蒙運動以来、知識階級の人々は感情よりも理性を、具体性よりも抽象性を、脈絡化されたものより脈絡を除外したものを尊重してきた。これらの価値観は実践や物を作ることに対する根深い不信感と結びつき、現代のメディアの日常語を学問の世界に持ち込むことを困難にしている。
 マルチメディアの言語をテキストと同等のものとして受け入れるには、科学と合理性、抽象と理論の優位に挑戦する大きなパラダイム・シフトが必要となるだろう。このシフトが長い間遅れていると考えているのが私一人でないのは確かである。例えばスティーブン・トゥールミンは高く評価された1990年の著書『コスモポリス』の中で、学問の世界はデカルト哲学の規範の支配を超えて進展すべきだと雄弁に論じている。[2]しかしこの変化がどれほど難しいかを、私は数年前はっきりと知った。それはある年長の学者が、相手が芸術家の場合、大学での昇進や終身在職権をその人に与えるかどうかについての判断がなぜ難しいかについて、私に説明したときのことである。「彼らの作品はあまりにも具体的で、抽象的、理論的要素に欠けているからです」と彼女は言ったのだ。それはまるで、大学教授は芸術作品を作るよりも、芸術について論文を書くほうがより価値がある、と言っているように思われた。
 マルチメディアの言語は明らかに、文字で書かれた合理的な科学の言語よりも、感情を表す主観的な芸術の言語により密接に関係している。かつてロシアの偉大な映画製作者セルゲイ・アイゼンシュタインは、芸術の言語を科学の言語に対立するものとして衝突の言語と呼び、また、文字で書かれた言語に対立するものとして弁証法的言語と呼んだ。科学の言語が芸術に適用されると芸術は硬化する、と彼は語っている。例えば、風景は地形図になり、聖セバスチャンの絵は解剖学の研究材料になってしまうというのである[3]
 マルチメディアの基礎とそれが意味を作り出す方法に関しては、体系的に明確化され始めたばかりである。それに比べて、映画の言語は私たちに広範囲にわたる理論体系を提供し、マルチメディアについて考えるための出発点を与えてくれる。1923年ソ連のドキュメンタリー映画製作者であり、映画の言語におけるロシアのパイオニアの一人でもあるジガ・ヴェルトフは、映画カメラのために想像力豊かなモノローグを書いた。これは今日のマルチメディアにも当てはまるだろう。「私は機械仕掛けの目、私は機械。私だけが見ることのできる方法であなたに世界を見せよう。現在もこれからもずっと、私は人間の不動性を持たない。私は常に動いている。私は対象物に接近し、また離れる……最も複雑な組み合わせの動きを記録しながら。時間と空間の限界から解放され、私がどこでそれを記録したにせよ、宇宙のあらゆる任意の点を統合する……。私のたどる道は世界の新しい見方の創造につながっている。私は新しい方法であなたの知らない世界を解読するのである。」[4]
 映画の基礎的要素の一つで、これもまたマルチメディアの多くに適用できるのが「モンタージュ」、すなわちショットの中やショットとショットの間に要素を並べることである。映画製作者にとって、これは編集の技法であり、映画製作の中心となるものである。モンタージュは、テキストとマルチメディアが意味を構築する方法にどれだけの違いがあるかをはっきりと示す重要な例である。モンタージュによって人は、時間と空間を操作することができ、現実の世界には決して存在しないが、テーマや概念上では関連のあるシーケンスを作り出すことができるのである。モンタージュによって作品の要素と要素の相互作用だけでなく、映画の作り手と受け取り手の相互作用が可能になる。それは新しい意味を作るために要素と要素が再結合することを可能にするだけでなく、その再結合を促進するのである。
 レフ・V・クレショフもロシアの映画製作におけるパイオニアの一人だが、彼が製作した有名なモンタージュのデモンストレーションは、その概念をはっきりさせている。クレショフは短い映像のシーケンスを製作し、この作品の中で、ある有名なロシア俳優の顔を三つの異なるショットに並置した。三つのショットとは、スープの入ったボール、棺に入った死んだ女性、おもちゃのクマで遊ぶ少女である。その当時、クレショフのワークショップの学生だったV・I・プドフキンによると、それを見た人々に「あなたは何を見ましたか」と尋ねると、彼らは「スープを見たとき男は空腹だった。少女を見たときはうれしそうだった。死んだ女性を見たときは悲しそうだった」と断言したそうである。人々は俳優の素晴らしい才能の証拠として、彼が様々な感情を表現したことを非常に細かく説明した。しかしそれらはすべて、俳優の顔とまったく同じショットだったのである。彼を撮った映像には何の変化もなかったのだ。それぞれのシーケンスに含まれているとされた意味は、ショットとショットを衝突させることによってのみ生まれたのである。
 コンピュータを使うと、私たちは現在、画像と音声を電子工学的に作ることができ、また時間と空間を操作して、前述のロシアの先駆者たちには夢でしかなかった方法で意味を作り出すことができる。全体の統一や合成やモーフィング(ある物体が別の物体に変形してゆく一連の効果・手法)を行うツールは、真実を偽って伝える手段以上のものである。それらは、より高位の意味やニュアンスや含蓄を作り出すことができる。同時性だけでなく統合もサンプリングも、マルチメディアにとっては当たり前のことであり、それによって「ブリコラージュ」の形態が可能になる。ブリコラージュとはジョン・シーリー・ブラウンの言葉によれば、「新しいものを作るために、使用したり変えたりできる何か(おそらくはツール、オープン・ソース・コード、画像、音楽、テキスト)」を見つけられる手法のことである。[5]
 マルチメディアにおける主な要因としての双方向性は、ある意味ではパフォーマンスと密接な関連があり、それによって視聴者・読者・使用者は意味の構築に直接参加することが可能になる。少々わき道に逸れるが、パフォーマンスは長い間「エンターテインメント」として低く見られていたのに対し、物語を話すという技術は、常に遂行的だが、人類の歴史を通じて文化と価値観を伝える主な方法であり続けている、ということに触れておいてもおそらくよいだろう。
 マルチメディアの語彙そのものが、テキストを書くのに使われる語彙とは違うアプローチを助長している。例えばメディアは「書く」のではなく、「create」し「construct」するものであり、「読む」のではなく「navigate」し「explore」するものなのである。その手法は活動的で双方向的で社会的であり、様々なアングルの見方を可能にする。
 マルチメディアを作るのに用いられる物理的な製作技術やそれを配給する手法も、テキストを生産し発行するのに用いられる方法とは異なっている。第一に、最も重要なこととして、マルチメディアの製作はほとんどの場合が共同作業である。大規模であれ小規模であれ、映画が一人の人によって製作されることはめったにない。映画で「〜製作」というクレジットは、ほとんどの場合が独特のビジネス慣習の現れであり、原作者の本当の性質や製作過程を反映したものではない。マルチメディアの作品では、このような共同製作の過程は規模の点では小さくなるかもしれないが、やはりその典型である。これは製作過程のまさに本質に存在するもので、必要なツールが難しいものであろうと簡単なものであろうと、それは基本的には変わらない。
 第二に、それが映画であれ、テレビ番組であれ、マルチメディアの何か別の形態であれ、作品のほとんどの部分が、製作過程の中で姿を現すような作品が最も出来がよい。脚本、シナリオ、絵コンテは指針を提供するが、もしありきたりで定型的な作品を超えたいと思うなら、映画でもマルチメディアのドキュメントでも、その製作や創作の過程における新たな発見やさらには偶然の産物をも取り入れる余地が必要である。ウォルター・マーチは『イングリッシュ・ペイシェント』を初めとして、何本もの有名な映画を編集しているアメリカで最も偉大な映画製作者の一人だが、彼はこの過程を、クリエイティブなチームによって予期しなかった何かが生み出される「知性の衝突」と呼んでいて、これは直観による判断を認め、それを尊重する過程だと言っている。この過程はある意味において、人が研究を行いながらその研究について学んでいくという一種のアクティブ・リサーチである。そのような作業では、自由に実験できる気風や、探求し、失敗することをいとわない意欲が必要である。ミシガン大学のドキュメント[6]から言葉を借りるなら、「実験の生態環境」が必要なのだ。それがあれば、すばやい反復や迅速な方針転換ができる。
 三番目に、様々なメディアは通常、一般大衆に配布し提示するものである。それらは製作の環境を超えた環境で見られることを意図するものだ。IMLでは当初、学生たちの作品は私的なものであり、学生と教授だけが見るものであると学生側も教授側も感じていた。しかし何学期間もこれを行っていくうちに、私たちは原作者の性質が変化するのが分かった。学生たちはもはや、教授だけを楽しませるために作品を書いたりしない。自分たちの作品を見て体験する仲間や他の人々に理解されたいと思っているのだ。自分たちをある研究分野における専門知識を持った原作者だと考えているのである。それと同様にマルチメディア・リテラシー研究所のワークショップの教授たちも、自分たちの研究作品を自分たちの専門分野以外の人々に見てもらいたいと強く願っている。人文科学、芸術、自然科学の教授たちは――その専門分野は量子物理学から美術史、哲学と非常に多岐にわたる――共通の考え方や識見に気づき、また、お互いの専門分野における教授法や研究に関する問題を知る共通のアクセスポイントを発見したのである。確かに、ある専門分野における研究すべてが、訓練を受けていない人に理解できるわけではないだろう。しかし学際的な研究のためには、教授たちは分野の境界を超えて話ができる言語を見つけなければならない。人文科学と自然科学の間で、専門分野を超えて会話ができる新しい空間が強く求められていたが、マルチメディアはおそらくそれを提供する可能性を持っているだろう。


4.結論として、上記の三つの論拠に従うと、21世紀において本当にリテラシーのある人とは、スクリーンのマルチメディア言語の読み書きを身に付けている人を指すようになるだろう

 100年経った今、映画の言語はかなり明確になり、非常に重要な文献が数多く存在している。製作の方法も非常によく理解され、明確になっているが、映画製作の世界ではそういった知識は、口頭で伝えられる文化に留まることが多いように思われる。このような歴史を持ち、メディアを作り上げるのに必要な技術に関してもそれを証明する十分な証拠があるにもかかわらず、複合メディアのテキストは教室や研究の時間に使う価値がないというのが、学校関係者や行政が広く支持している態度である。そのテキストが、論文や研究報告といった従来からある活動をあまり必要としないものの場合、特にその傾向が強い。
 1960年代以降、大学だけでなく高校までもがいわゆるメディア・コース、もしくは視覚リテラシー・コースというものを教えてきた。しかしこれらのコースには二つの限界がある。一つは、学校側がテレビや映画やそれに関連するメディアは、現実を誤って伝えるような下級のコミュニケーション形態である、という仮定をしばしば根底に持っているように思われることだ。メディアは最悪の場合、人を操ったり人に嘘をついたりするし、最高の場合でも浅薄なものに過ぎないと考えられているのである。私の理解する限りでは、こういったメディア・コースは、真の教育とは本の中にあり、真の知識とは合理的で、文字によるものだという信念を強要している。学生たちは、視覚文化の猛攻撃から身を守るために、目に見えるテキストを読むようにと教えられているのである。二つ目は、これらのコースはリテラシーの定義づけが非常に偏っていて、「読むだけ」のアプローチに集中していることだ。完全なリテラシーは読むだけでなく書く能力も要求する。最近、ある非常に有名な学者が「映像はテキストほど有用ではない。なぜなら映像は何通りにも解釈される可能性があるが、言葉はそれに比べてはるかに正確だからだ」と私に言った。私たちのほとんどが日常的に「いいえそうじゃなくて、私が本当に言いたかったのは〜ということです」というような経験をしているのに、彼にはそんな経験がないのだろうか、と私は思った。
 学生たちは、すでにスクリーン言語とマルチメディアに関する十分な知識を持っているという、広く行き渡った前提があるために、現在の状況はさらに複雑である。もちろん今日の若者はコンピュータをあまり恐がらないし、高品位のメディアのソフトウェアを取り扱う技術的能力も十分に備えている。マルチメディアは実際、彼らの日常的な言語なのである。しかし、彼らは年長者と同様に、この言語に関する非常に重要な能力を持っていない。おそらくその能力に関しては年長者よりも劣るだろう。若い人々は、文字によって特定のジャンルについて文章を書くこと、分析することを教わる必要があるが、それ以上にと言わないまでも同じ程度には、スクリーンのために書くこと、マルチメディアを分析することを教わる必要があるのだ。一般に学生は、中学校のレベルまでに文字による指導を受けている。しかしマルチメディアに関して同じような指導を受けていることはめったにない。マルチメディアは彼らの経験のいたるところに存在しているので、それを分析したり分解したりするのは、彼らにとって非常に難しい場合が多いようである。
 もう一つ考慮すべき問題は、映画やメディアや視聴覚文化が純粋学問的に研究されたことによって教育学上の先例が確立し、映画、テレビ、マルチメディアを高等教育に利用するための理論的根拠が提供されているにもかかわらず、これらの非常に重要なツールを適所に配置もせず、メディアがカリキュラムを超えて複数の専門分野に統合されるのが一般的になっていることである。映画や映画の一部は、主題に「学生の気持ちを向けるため」様々な授業で上映されている。映画をこのように使う方法は、視聴覚メディアの性質やその固有の意味と構造、それが作られた文化的背景やそれを細かく分析するとどのような結果になるか、などに関して適切な配慮をせずに行われているように思われることが多い。
 歴史学科では過去20年の間、このやり方の最もまずい例が行われている。この学科では映画がカリキュラムの不可欠な部分になっていて、当初の反対にもかかわらず、現在ではドラマチックな物語形式の映画が、過去を「生き返らせる」能力があるとしてその功績を認められている。映画は感情に訴えるインパクトを生み出し、それは文章として書かれたテキストのインパクトを超えると考えられているのである。しかし、歴史や人文科学系の教授のほとんどは、映画の修辞的慣例や物語的手法を扱う訓練を受けていない。その結果、歴史映画はしばしば経験主義的に分析され、従来の歴史ドキュメントと同じ基準に従って評価されているのである。映画理論とスクリーン言語の背景的知識がないので、学生も教授も、文化的背景に内蔵された高度に発達した含意体系の産物として映画を読むことはないのだ。それに対して、テキストの物語に対するこれらの技術に関しては、読む教育の早い段階で教わっているのである。
 メディアの言語を読み、書き、そして特定の前後関係の中でそれがどのような意味を作り出しているかを理解するためには、一般的および物語的な慣例は流動的であること、記号と画像の前後関係、意味を伝達するものとしての音声、それに書体の効果などだけでなく、フレーム構成、カラーパレット、編集技術、音声と画像の関係などをいくらかは理解しておく必要がある。スクリーンの方向、フレーム中の物の配置、色の選択、モーフィング、カット、それにディゾルブといった原則はすべて、スクリーンによるコミュニケーションを美的に心地よいものにする以上の役目を果たす。副詞、形容詞、パラグラフ、ピリオド、類推、比喩がテキストにとって欠かせないものであるのと同じくらい、それらは意味の創造にとって非常に重要なものなのである。マルチメディアはまた、デザインやナビゲーションやインターフェースの構築にも、同じ注意を払うことを要求する。マウス、クリック、リンク、それにデータベースは、従来のスクリーン・ディスクリプタのそばで、すでに特定の位置を占めるようになっている。
 映画学校以外で、マルチメディアや映画的構成に関するこれらの形態的要素を、英語や外国語を教えるのと同じような方法で教えてくれる場所はない。実際、メディアに関するほんの通り一遍の知識でさえ、ほとんどの大学の一般教育カリキュラムには含まれていないのである。高等教育機関では、例えばスタインベック、ヘミングウェイ、フロストの作品の内容だけでなく、その形態上の技法を学ぶことも学生に要求する。それは確立した一連の文学理論に鑑みて、作品の中味と創作スタイルを十分に議論できるようになるためである。どのようなメディアでも、そのような研究が要求されることはまずない。せいぜいが「芸術」で1科目取ることを要求されるくらいだろう。しかしそれも、語学演習と同じくらいの真剣さが求められる科目ではなさそうである。
 私たちはマルチメディア・リテラシー研究所で、教授や学生たちが自分の当面の仕事に最適の言語を選べるよう、最大限の努力をしている。その言語が文字で書かれたテキストの場合もあれば、それが一つまたは複数のマルチメディアの場合もおそらくあるだろう。その選択を行うためには、教職員も学生も、マルチメディアとスクリーン言語の要素を駆使する能力を持っていなければならないし、また、知識を創造し広めるためにその能力をどのように使うかを理解していなければならないのである。

参考文献および関連URL
[1] Jerry Mander, Four Arguments for the Elimination of Television(New York: Morrow, 1978).
[2] Stephen Toulmin, Cosmopolis: The Hidden Agenda of Modernity(New York: Free Press, 1990).
[3] Sergei Eisenstein, Film Form, trans. and ed. Jay Leyda(New York: Meridian Books, 1957), 46.
[4] Kino-eye: The Writings of Dziga Vertov, ed. Annette Michelson, trans. Kevin O'Brien(Berkeley: University of California Press, 1984), 17-18.
[5] John Seeley Brown, "Learning in the Digital Age," in Maureen Devlin, Richard Larson, and Joel Meyerson, eds., The Internet and the University: Forum 2001(Boulder, Colo.: EDUCAUSE and The Forum for the Future of Higher Education, 2002), 71-72, 〈http://www.educause. edu/forum/ffpiu01w.asp〉(accessed January 21, 2003).
[6] University of Michigan, President's Information Revolution Commission Report, April 2001,〈http://www.umich.edu/pres/inforev2/〉(accessed January 21, 2003).
   
エリザベス・デイリー:南カリフォルニア大学アネンバーグ・コミュニケーション・センター理事、同大学映画・テレビ学部学部長。ウィスコンシン大学でコミュニケーション・アートの博士号を取得。




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