翻訳
これら四つの説は、南カリフォルニア大学アネンバーグ・コミュニケーション・センターのマルチメディア・リテラシー研究所(IML)で行われている研究の基本原理である。
1. スクリーンのマルチメディア言語は、現代の日常語になった。 2. スクリーンのマルチメディア言語は、テキストに関係なく複雑な意味を構築できる。 3. スクリーンのマルチメディア言語は、テキストのそれらとは本質的に異なる思考方法、コミュニケーションと研究の方法、出版と教育の方法を可能にする。 4. 結論として、上記の三つの論拠に従うと、21世紀において本当にリテラシーのある人とは、スクリーンのマルチメディア言語の読み書きを身に付けている人を指すようになるだろう。
100年経った今、映画の言語はかなり明確になり、非常に重要な文献が数多く存在している。製作の方法も非常によく理解され、明確になっているが、映画製作の世界ではそういった知識は、口頭で伝えられる文化に留まることが多いように思われる。このような歴史を持ち、メディアを作り上げるのに必要な技術に関してもそれを証明する十分な証拠があるにもかかわらず、複合メディアのテキストは教室や研究の時間に使う価値がないというのが、学校関係者や行政が広く支持している態度である。そのテキストが、論文や研究報告といった従来からある活動をあまり必要としないものの場合、特にその傾向が強い。
1960年代以降、大学だけでなく高校までもがいわゆるメディア・コース、もしくは視覚リテラシー・コースというものを教えてきた。しかしこれらのコースには二つの限界がある。一つは、学校側がテレビや映画やそれに関連するメディアは、現実を誤って伝えるような下級のコミュニケーション形態である、という仮定をしばしば根底に持っているように思われることだ。メディアは最悪の場合、人を操ったり人に嘘をついたりするし、最高の場合でも浅薄なものに過ぎないと考えられているのである。私の理解する限りでは、こういったメディア・コースは、真の教育とは本の中にあり、真の知識とは合理的で、文字によるものだという信念を強要している。学生たちは、視覚文化の猛攻撃から身を守るために、目に見えるテキストを読むようにと教えられているのである。二つ目は、これらのコースはリテラシーの定義づけが非常に偏っていて、「読むだけ」のアプローチに集中していることだ。完全なリテラシーは読むだけでなく書く能力も要求する。最近、ある非常に有名な学者が「映像はテキストほど有用ではない。なぜなら映像は何通りにも解釈される可能性があるが、言葉はそれに比べてはるかに正確だからだ」と私に言った。私たちのほとんどが日常的に「いいえそうじゃなくて、私が本当に言いたかったのは〜ということです」というような経験をしているのに、彼にはそんな経験がないのだろうか、と私は思った。
学生たちは、すでにスクリーン言語とマルチメディアに関する十分な知識を持っているという、広く行き渡った前提があるために、現在の状況はさらに複雑である。もちろん今日の若者はコンピュータをあまり恐がらないし、高品位のメディアのソフトウェアを取り扱う技術的能力も十分に備えている。マルチメディアは実際、彼らの日常的な言語なのである。しかし、彼らは年長者と同様に、この言語に関する非常に重要な能力を持っていない。おそらくその能力に関しては年長者よりも劣るだろう。若い人々は、文字によって特定のジャンルについて文章を書くこと、分析することを教わる必要があるが、それ以上にと言わないまでも同じ程度には、スクリーンのために書くこと、マルチメディアを分析することを教わる必要があるのだ。一般に学生は、中学校のレベルまでに文字による指導を受けている。しかしマルチメディアに関して同じような指導を受けていることはめったにない。マルチメディアは彼らの経験のいたるところに存在しているので、それを分析したり分解したりするのは、彼らにとって非常に難しい場合が多いようである。
もう一つ考慮すべき問題は、映画やメディアや視聴覚文化が純粋学問的に研究されたことによって教育学上の先例が確立し、映画、テレビ、マルチメディアを高等教育に利用するための理論的根拠が提供されているにもかかわらず、これらの非常に重要なツールを適所に配置もせず、メディアがカリキュラムを超えて複数の専門分野に統合されるのが一般的になっていることである。映画や映画の一部は、主題に「学生の気持ちを向けるため」様々な授業で上映されている。映画をこのように使う方法は、視聴覚メディアの性質やその固有の意味と構造、それが作られた文化的背景やそれを細かく分析するとどのような結果になるか、などに関して適切な配慮をせずに行われているように思われることが多い。
歴史学科では過去20年の間、このやり方の最もまずい例が行われている。この学科では映画がカリキュラムの不可欠な部分になっていて、当初の反対にもかかわらず、現在ではドラマチックな物語形式の映画が、過去を「生き返らせる」能力があるとしてその功績を認められている。映画は感情に訴えるインパクトを生み出し、それは文章として書かれたテキストのインパクトを超えると考えられているのである。しかし、歴史や人文科学系の教授のほとんどは、映画の修辞的慣例や物語的手法を扱う訓練を受けていない。その結果、歴史映画はしばしば経験主義的に分析され、従来の歴史ドキュメントと同じ基準に従って評価されているのである。映画理論とスクリーン言語の背景的知識がないので、学生も教授も、文化的背景に内蔵された高度に発達した含意体系の産物として映画を読むことはないのだ。それに対して、テキストの物語に対するこれらの技術に関しては、読む教育の早い段階で教わっているのである。
メディアの言語を読み、書き、そして特定の前後関係の中でそれがどのような意味を作り出しているかを理解するためには、一般的および物語的な慣例は流動的であること、記号と画像の前後関係、意味を伝達するものとしての音声、それに書体の効果などだけでなく、フレーム構成、カラーパレット、編集技術、音声と画像の関係などをいくらかは理解しておく必要がある。スクリーンの方向、フレーム中の物の配置、色の選択、モーフィング、カット、それにディゾルブといった原則はすべて、スクリーンによるコミュニケーションを美的に心地よいものにする以上の役目を果たす。副詞、形容詞、パラグラフ、ピリオド、類推、比喩がテキストにとって欠かせないものであるのと同じくらい、それらは意味の創造にとって非常に重要なものなのである。マルチメディアはまた、デザインやナビゲーションやインターフェースの構築にも、同じ注意を払うことを要求する。マウス、クリック、リンク、それにデータベースは、従来のスクリーン・ディスクリプタのそばで、すでに特定の位置を占めるようになっている。
映画学校以外で、マルチメディアや映画的構成に関するこれらの形態的要素を、英語や外国語を教えるのと同じような方法で教えてくれる場所はない。実際、メディアに関するほんの通り一遍の知識でさえ、ほとんどの大学の一般教育カリキュラムには含まれていないのである。高等教育機関では、例えばスタインベック、ヘミングウェイ、フロストの作品の内容だけでなく、その形態上の技法を学ぶことも学生に要求する。それは確立した一連の文学理論に鑑みて、作品の中味と創作スタイルを十分に議論できるようになるためである。どのようなメディアでも、そのような研究が要求されることはまずない。せいぜいが「芸術」で1科目取ることを要求されるくらいだろう。しかしそれも、語学演習と同じくらいの真剣さが求められる科目ではなさそうである。
私たちはマルチメディア・リテラシー研究所で、教授や学生たちが自分の当面の仕事に最適の言語を選べるよう、最大限の努力をしている。その言語が文字で書かれたテキストの場合もあれば、それが一つまたは複数のマルチメディアの場合もおそらくあるだろう。その選択を行うためには、教職員も学生も、マルチメディアとスクリーン言語の要素を駆使する能力を持っていなければならないし、また、知識を創造し広めるためにその能力をどのように使うかを理解していなければならないのである。
参考文献および関連URL | |
[1] | Jerry Mander, Four Arguments for the Elimination of Television(New York: Morrow, 1978). |
[2] | Stephen Toulmin, Cosmopolis: The Hidden Agenda of Modernity(New York: Free Press, 1990). |
[3] | Sergei Eisenstein, Film Form, trans. and ed. Jay Leyda(New York: Meridian Books, 1957), 46. |
[4] | Kino-eye: The Writings of Dziga Vertov, ed. Annette Michelson, trans. Kevin O'Brien(Berkeley: University of California Press, 1984), 17-18. |
[5] | John Seeley Brown, "Learning in the Digital Age," in Maureen Devlin, Richard Larson, and Joel Meyerson, eds., The Internet and the University: Forum 2001(Boulder, Colo.: EDUCAUSE and The Forum for the Future of Higher Education, 2002), 71-72, 〈http://www.educause. edu/forum/ffpiu01w.asp〉(accessed January 21, 2003). |
[6] | University of Michigan, President's Information Revolution Commission Report, April 2001,〈http://www.umich.edu/pres/inforev2/〉(accessed January 21, 2003). |
* | エリザベス・デイリー:南カリフォルニア大学アネンバーグ・コミュニケーション・センター理事、同大学映画・テレビ学部学部長。ウィスコンシン大学でコミュニケーション・アートの博士号を取得。 |