巻頭言
学びは喜び、それに情報は大切!
深田 尚彦(大阪芸術大学学長)
知識は生涯活用できる知見で確定した文章だが、日々多くの新測定値、新機械の性能表、進行中の実験調査や計画等が新聞、雑誌、Academic Journalの速報欄に出る。これが情報、知識として書籍に収まる前の段階で研究、調査者には有用。情報の入力、保存、出力さらに分類、作表、印刷等のすべてでComputerは有用である。従来は「ある研究課題についての文献目録」制作は、価値は高いが労多い作業であった。今や小型Computerで学生や助手がそれをする。今日の大学でComputer操作の教授、即情報教育は学生全員に不可欠である。しかし、研究課題なしでの方法習得は困難で、教授には工夫が必要である。
教育は先人の経験(知識)を後進(学生)に伝授する行為。人は誰でも社会生活から知識を得るが、教育は経験知識獲得時間の短縮を目指す。優れた人でも大学のいずれかの学部が与える教科内容を独力で得ることは不可能である。ブリタニカ社刊行の「グレートブックス」(60巻)の付録でM.G.アドラー(ブリタニカ百科事典の最高編集者)は「人体に良いのは食物、水、睡眠、衣服と住居」、「人の心に良いのは知識、情報、理解とWisdom」と重要事項を明言している。大学進学者の増加は良いが、学力低下は必至、教授法の工夫は不可欠である。
大学が与えるのは二分すれば知識Scienceと技術Art。前者は言語による人類の文化資産の獲得、後者は手足を用いてする制作法の習得である。技術Technologyは語源TekneがArtだから芸術。ArtはNature(語源Naturaは始めからある物で、天地山川等を指す)の対語と考えられる。自然は神の創造Creationと西欧では考える、地球上にあるその他のすべては人間の制作、それがArtだ。神の創造以外は総て人間の制作だ。大学が教えるのは知ることとする(作る)こと。
教育の効果は人に何ができるかである。世に言う賢い人(高いIntelligence所有者)は容易に知識を手に入れるが、知識は人生の何時か何処かで活用するもの、活用せねば意味がない(無益)。理解力Intelligenceに対して賢明wiseとは実行能力、(それがWisdom)である。
日本学生の英語力は世界で順位が低いと言われる。そのため、文部科学省は小学校から英語教育というが、歴史的な背景からみても日本で日常生活に不要の英語の強制は無駄である。センター試験での英語のリスニングも滑稽で、筆者の専門は心理学であるが、生涯英語文献を読んでも会話は不得意である。それでも学生には英語(独仏語でも良い)を学べと薦める。日本の教育は卒業後の学生の社会寄与で役立っていない。多分、大学の教育が悪いのか? 医師不足、介護、国際化等と文科省がツブヤクと大学はその学科を設置する。教育は知識を与えるが人間作りをしていない。教育は学生にNoteを取らせ卒業証書を与えることではない。卒業を日本語は学を卒える(終える)と読むが、Graduationの語源はラテン語のGradus(一歩踏み出す)なので、卒業を出発と意識する。Webster辞典は卒業式を「大学で学位記(修学の証明書)を受け取る儀式」と言うので、日本人の理解とは違う。
Studyとは、自分で、自分を、向上させる行為で、これをする人が学生Studentである。学校は行く所、出る所、卒業証書を貰う所ではない。知識や技術(制作能力)を習得させて卒業後、社会に寄与貢献できる人を育てる場所だ。そのような意識が日本の学校の多くに欠けているのではないか?明治初期の大学では英語書が多く使われた。それは賢明であった。ただし意欲ある、賢明な学生がいての話である。大学はそうありたく、そんな学生を教えたい。
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