巻頭言

見えてなければならないもの


阿久戸 光晴(聖学院大学学長)



 夏目漱石の『夢十夜』という小説の中の第六夜に不思議な記述がある。主人公が夢で、東京・護国寺の山門で運慶が仁王を彫っていると聞き見に行く。そこで運慶のよどみない見事な彫りさばきに主人公が思わずうなると、野次馬の車夫が「あれは鑿や槌で顔をつくっているのではなく、木の中に既に仁王が埋まっているので、簡単に彫り出せる」と言う。そこで主人公は家に帰り、家にある木を次々と彫るが何も出て来ない。そこで「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていないと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由も分かった」という主人公の言葉で閉じられる。目に見える木という現実の表層の奥底に「仁王」という目に見えなくとも或るものの存在の指摘と、そのことを捉えられない時代の問題性を、漱石は指摘している。
 virtual realityという言葉があり、日本では「仮想現実」と訳される。しかしvirtualの語源は「美徳」を意味するvirtueであり、「実質的には存在するもの」が本来の意味である。ところが日本では「目に見えないものが存在するはずがない」という先入観からか、虚構なるものと訳されるようになったと考えられる。しかしおよそ存在するものの奥底には、あの仁王のようなvirtual reality「実質的には存在するもの」があり、存在するものすべては運慶のような人物に彫り出されるのを待っている。invisibleではあるがfictionalでなく、virtualに存在するreality。物事の奥底には、ちょうどタイタニック号を沈めた氷山のように目に見える海面上の山よりもはるかに巨大な存在が潜んでいて、現実に目に見える現象となって現れてくる。見える現実とは、豊穣なる可能体の或る一部分が現れてくるものであろう。逆に、巨大な可能体がまずあって、その一部が氷山の一角のように回転しながら海上に「現実」となって現れてくると見るべきである。この事実が電子化社会の到来とともに、新しい装いとともに現れる。‘virtual reality’というプログラムに従って構成された「現実」を表すコンピュータは、この「実質的には存在するもの」のrealityを教える。
 やみくもな情報教育は、情報の大海の中に学生を放り出すことになる。ひとりの学生に招かれざる可能体が突然現れることになりかねない。教育において大事なことは、明確な教育理念のもと、必要な情報を選ぶ価値判断基準とその情報から有益な可能体を学生本人が自ら形成していくことを大学が支援することである。教育する側は具体的教育目標が見えていないといけない。ひとりの学生をあの「木」と考えた場合に、その木の中に「仁王像」を見出しているか否かが問われている。ここから真の情報教育が始まる(in+form)。
 ところで最近まで日本の教育は基本的にあたかもコンピュータに猛烈に情報をインプットするシステムであったと言えよう。ある日コンピュータの容量を超える情報過多で、作業効率が低下した、そして今度は情報を急速に廃棄し、基本ソフトのいくつかまで初期化してしまい、コンピュータがうまく動かなくなった、このような蛇行をしているのが現代教育政策かもしれない。大切なことは、何よりもあの「木」自身に考える力と必要な情報を選び取る力を育むことであろう。木自身が成長するために必須の情報に必要なのは、明確な理念と規範だからである。
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