翻訳
掲載の訳文は、EDUCAUSEの許可を受けて1章と2章を抄訳したものです。
原文 | http://www.educause.edu/EducatingtheNetGeneration/5989 |
この研究は私達の子供から始まった。子供達をテレビやラジオなしに勉強させようとしても、めったに成功しなかった。(家に雷が落ちて、ほとんどの家電製品が故障したとき、一時的に成功したが。)私達はステレオに気を取られるとそれに熱中してしまうが、子供達には影響はないようである。質の悪い悲観的予測は当たらないものだ。私達はビデオのように大ヒットのゲームをたくさん借りてきた。ゲームにどんな意味があるのか、私達はいずれ気づくと思った。子供はグランプリレースのようなゲームをやらせてくれた。二人は画面に直角に車を走らせた。屈辱的なことに、どんなに練習しても子供達の空間能力にはかなわないことを確信した。
昔は一番下の子が学校から帰ってくると「お母さん、ただいま。インターネットはつながってるの」と叫んだものだ。もちろんダイヤルアップ接続の頃の話だ。彼が使えるように私はオフラインしなければならなかった。彼はメールのチェックやネット上の仲間とおしゃべりをしてからでないと、外へ遊びに行こうとしなかった。親からは異様に見えたが、ティーンエイジャーにとっては当然のことだった。
時折、私達は子供達にITについて聞いてみたことがある。私達はテクノロジーに関する正当な質問だと思っているが、彼らがいくぶん驚きの表情を浮かべるのには慣れている。彼らは「本気なの」といって面倒くさそうに答えたが、その様子を見て彼らの考えていることがわかった。多くの親たちのように、携帯電話のような電子情報技術の消費者になっていったとき、私達はその使い方を子供達に聞いたものだった。読者も家の中のビデオ、リモートコントロール、DVDプレイヤーを誰がセットするか聞く必要はなかったのではないだろうか。
読者の多くが、子供達、甥や姪、孫とでさえも似たような経験をしていることだろう。このような状況は「私が大人になったからではない」と言わせることになる。
日曜日に、そのことがよく理解できるようになった。日曜日の夜には、私達は家族そろって夕食をとることにしている。子供達の批判的思考法、説得術、自分の周りの世界を正しく認識する力を磨くよい機会だと思っていた。そして、私達はそのようにしたと思う。しかし、もっとも学んだのは私達自身だった。
私達はテクノロジーについて学んだ。私達が知っている最低限の技術的な内容よりも、息子は私達の知らない図表や画像について話すことができた。彼は私達の理解できないデジタルリテラシーを身につけている。私達は経験に基づく学習について聞いた。子供達一人ひとりが、実践的な経験に基づく学習の欠如、すなわち必要性について話した。初めは、子供達が幼いときにレゴといっしょに過ごしたことだと思った。それは意義深いことだと思っている。私達は他にも多くのことを学んだ。私達が仮定していることは、彼らの短気さは、直感性すなわち反応の速さの表れと見なすことだ。例を挙げればきりがない。
とは言え、私達が聞いたことは、親としての範囲を超えても適用できる。自分の子供達が本当に理解できないだけではなく、自分の学生たちも自分の思うように理解できないほとんどの教員にとっても参考になるだろう。
本書は教員のためのものである。教員として選ばれた人たちは一般に学生たちに身をささげている。しかし、時には私達が目撃したことをほとんど理解できなくなる。本書が教員にとって、ネット世代の傾向や行動を理解する手助けになることを願っている。
最初の章は、1980年代とそれ以降に生まれたネット世代の学生の実態調査の結果である。個別に二つと同じものはないが、世代間の特徴は対照的である言える。大学では学生の人口統計情報を決まって集めるが、現役学生のための最適な企画やプログラムを配信するための調査には役立たないと思われる。
ベビーブーマーたちがネット世代について話していることは、学生自身にとって聞くに値しないわけではない。Pittsburg大学Johnstown校のGreg RobertsやNorth Carolina州立大学のBen McNeelyとCarie Windhamはテクノロジーと高等教育におけるネット世代を展望する上で、その理解を助けてくれる。異なるテクノロジーの定義を同列にした上での評価は洞察に値する。彼らはまた双方向性とそれを用いた学習についての重要性を強調している。Central Florida大学のJoel Hartman、Patsy Moskal,、Chuck Dziubanはオンライン世代の学生と対面式世代の学生とを混合した状況を体験している。彼らの研究では、若い学生たちはテクノロジーを強く好むという前提に注目している。学生作家の再考によれば、テクノロジーは結局のところ手段にすぎない。教員と学生たちとの関係に期待すると、テクノロジーを使いたいという欲求はくつがえされる。
テクノロジーは全体的な関心事であるとは思われないにしても、大学は学生の要求や必要性に応じた巨大テクノロジーへの投資を既に行っている。Bob KvavikがEDUCAUSE応用研究センターで行った研究報告では、学生が所有するテクノロジーとその使用法および利益と思われることについて詳細が述べられている。高等教育における学習テクノロジーの使用が、コース管理システムから双方向アプローチへと改善される余地があることは明らかである。
双方向教育はJudith RamaleyとLee Ziaが著した章の課題であり、全米科学財団で行った彼らの仕事が基礎となっている。実質的に、ネット世代を研究した人たちはすべて、経験的な実地での教育に対する好みは、別個の特徴と信じている。その章ではインタラクションが種別ごとになっており(例えば、人対人、人対道具、概念ごと)さらに、プロジェクトの例としてインタラクションの実例が示されている。個別のコースを超えたものとして、カリキュラムについてどのような状況が考えられるだろうか。特に、21世紀の学生のために準備するならば、どのような要求ができるのだろうか。American CollegesとUniversities’ Greater Expectationsの助成を受けたAlma Clayton-Pedersen とNancy O’Neillは、今日の学生の要求に見合うカリキュラムの適用と学習に役立つテクノロジーの探求を出発点として主導している。
私達はしばしば学生と教室のことを考えるけれども、サービスとサポートの配置は必ず学生の成功に見合うものである。Pennsylvania州立大学のJim Wagerは、学生サービスの専門家が今日の学生とテクノロジーについてどのように考えているかを記している。彼が述べているのはテクノロジーについてだけではなく、テクノロジーがサービスを便利にするために重要な役割を担い、それは学生生活を通して一体化するものであることを述べている。
能力と学生が異なる観点に立つものであるならば、学生に対する効果的な教育法のように、能力を異なった観点から理解する手立てが必要であろう。Anne Moore、John Moore、Shelli Fowlerは、ITにおける能力の流動性を高めるプログラムを提示しており、これはネット世代の要求に見合うものである。能力開発研究所のVirginia Techによるプログラムは、将来的な能力、すなわち大学院レベルの能力の開発を企図したものであり、能力開発において価値あるモデルである。
ネット世代が経験に基づいて教育や労働、ソーシャルネットワーキングを評価するならば、教室の持つ意味や全体的な教育環境とはどのようなものになるだろうか。Dartmouth大学のMalcolm Brownは、ネット世代において理論を学ぶ意味や学習空間のITについて研究している。原理を学ぶことを考慮すると、彼はネット世代における学習空間は、テクノロジーよりもそれを可能にする活動によって表現されるだろうと主張している。
教室の概念が学習空間にまで拡張するように、図書館の概念までも発展している。学生は図書館に行くよりもGoogleにアクセスしている。コンテンツ、アクセス、コレクション、サーキュレーション・システム、オンライン・カタログは常に図書館の一環といえるだろうが、ネットワーク情報連合のJoan Lippincottは、図書館のプログラム、サービス、空間をネット世代に伴って再編成するように問題提起している。各地の研究所から集めた多くの例を挙げながら、彼女は、大学にとって考慮すべき理論的な背景と実際的な提案の両方を提示している。
要するに、高等教育をネット世代に適合しようとするならば、多くの変化を意味することになる。EDUCAUSEのCarole Baroneは、高等教育が時代の変化に合った適切なものであろうとするならば、新たなアカデミーを形成するべきだと力説する。彼女は、新たなアカデミーの特徴としての新たな文化的価値や新たなスタイルのリーダーシップに伴った、文化とテクノロジーの相互作用について述べている。彼女は、ネット世代を理解するにあたって、高等教育を変えるために制度的な解決を訴えている。
テクノロジーの変化に伴って、ネット世代に適合した大学とともに、公共機関もまた「次なるもの」が問われている。Harvard大学のChris Dedeは、新興のメディアがネオミレニアムの学習スタイルをどのように促進するか述べている。マルチユーザーのバーチャル環境やユビキタス・コンピューティングは、ユーザーをデスクトップのインターフェイスから学習を促進する実体験のような没入環境へと移行させるだろう。その結果、学習スタイルは没入体験と分割された学習コミュニティを基礎として発展するだろう。Dedeは、物理的な設備、テクノロジーのインフラ、専門的能力の開発に対する投資としてのネオミレニアムな学習の意味について詳述している。
既に紹介したように、私達にとっては研究は自分の子供から始まった。読者も同様の経験からネット世代への関心を深めたかもしれない。始まりはどのようであれ、ネット世代と高等教育が交差する活発な研究に私達とともに参加してくれることを望みたい。私達は出発点としてふさわしい論文を集めてみた。ネット世代について考え、調査し、オプションの研究をする機関が多ければ、私達が学ぶことも多いだろう。
活動的な研究領域なので、私達は伝統的な印刷物よりもむしろ可能な限り電子的なフォーマットで見解を述べた。ネット世代に対する理解も時間とともに変化するだけでなく、私達の表現もまたテキストだけでは限界がある。ビデオやテキストを充実させる資料を含んだウェブサイト(http://www.educause.edu/LibraryDetailPage/666?ID=pub7101)を見てほしい。同様に読者のもつ情報を共有させていただきたい。
ネット世代の教育は名誉もやりがいもある。私達が彼らに期待しているように、彼らは私達に大きな期待を寄せている。正確なバランス・ポイントを見つけることは、お互いをよく理解するために必要である。本書が読者のネット世代の教育に役立つことを願っている。そして、彼らが私達を教育するためにも。
背景
大学1年生のEricは朝起きるとまずPCを覗き込み、寝ている間にインスタントメッセージが何通届いているか確認する。画面上では彼が見ているブログに様々な内容が掲載されていて、彼に何度も連絡をとろうとした試みが明らかになっている。急いでシャワーを浴びてから、彼は自分でカスタマイズしたヤフーのホームページ上のニュースや天気予報、スポーツを見てから、大学のアカウントにログオンした。彼の備忘録には、今日は社会学で小テストがあり、化学の教授に今晩中に報告書をメールに添付して送付しなければいけないことが示されている。友人のインスタントメッセージにいくつか返答した後、他のチームメートがコンピュータサイエンスのクラスで行っているプロジェクトをどれだけ進めているかを確認する。そのあと、ラップトップに昨日の化学の講義をダウンロードする。今日はこれからプロジェクトで一緒になっている学生とユニオンで座ってプロジェクトの確認作業をする。プロジェクトに必要なオンラインの資料を見つけることができなかったので、授業を終えてからEricは図書館に行く予定である。彼はめったに図書館で本を借り出しに行かない。普通はグーグルやウィキペディアを使うからである。その晩遅く、彼が目下勝とうとしているインターネットゲームで複数の人間と対戦しつつ、期末レポートを書く。
インフォメーションテクノロジーはEricの生活に完全に組み込まれているが、彼はそれをテクノロジーだとは考えてない。ある世代のテクノロジーは次の世代では当然のものと考えられる。コンピュータ、インターネット、オンラインソース、瞬時のアクセスは単に物事を遂行するための方法である。ネット世代のEricはインターネットなしの人生を知らないのである。
子供やティーンエイジャー
今日、ネット世代の学生はテクノロジーと一緒に育つ。PCが導入された時代に生まれた彼らの20パーセントは5歳か8歳からコンピュータを使いはじめている。バーチャルには、すべてのネット世代は16歳から18歳からずっとコンピュータを使っているはずである。そして、子供達のコンピュータ使用はそれを遙かに凌ぐ。8歳から18歳までの児童のうち96パーセントはオンラインを使っている。74パーセントは自宅からアクセスし、61パーセントは毎日インターネットを使っている。
ITへの接触は極めて若い年齢で始まっている。6歳以下の児童は毎日スクリーンメディア(テレビ、ビデオ、コンピュータ、ビデオゲーム)に平均2時間費やしているが、それはほとんど外で彼からが遊ぶ時間(1.58時間対2.01時間)に匹敵する。しかし、どちらも読書をする時間(39分)を大きく上回っている。この年齢の児童の半数はコンピュータを使い、そのうち4歳から6歳の子供の27パーセントが1日1時間以上(1.04時間)キーボードに向かっている。
“ティーンエージャーだけではなく、オムツをつけた赤ん坊までもコンピュータに取り込まれ、夢中になっている。” 前の世代が印刷物で情報を得たのに対し、この世代はデジタルで情報を得ている。
家庭のデジタルメディア(コンピュータ、ゲーム、インターネット)はテレビの視聴時間に近づいている。13歳から17歳の子供は平均して3.1時間テレビを見て、デジタルメディアに3.5時間費やしている。学生は一度に一つ以上のメディアを使っていることに関心を払うべきだ。昔の学生が複数の作業をしていたのと同じように、児童やティーンエイジャーはテレビを見ているのと同時に電話をかけ、ラジオを聞き、オンラインしているのが一般的である。かなり多くのパーセンテージを占める児童が電話やテレビ、ラジオを聞いている最中の誰かから聞いて、サイトにアクセスしたことを報告されている。
ほんの数年遅く生まれることで、デジタルリタラシーははるかに発達するかもしれない。たとえば、2億人以上の子供達(6歳から17歳)は自分のWebサイトを持っている。女の子は男の子よりWebサイトをもち(12.2パーセント対8.6パーセント)、文字以外の表現、音楽、ビデオ、グラフィックスの使用能力はそれぞれの年齢層で強くなっている。
子供やティーンエージャーの大半がコンピュータに家庭からアクセスしている。しかし、家庭からのアクセスは所属する集団によって異なり、人種が関係する。白人は96パーセントがアクセスしているが、ヒスパニック系は96パーセント、アフロアメリカン(8歳から18歳)は92パーセントである。この数字は家庭学習や中程度の年収に基づいて比較しても(2パーセントの範囲の誤差で)同じような結果となる。さらに自宅からのインターネットアクセスを考えると大きな差がある(白人、80パーセント、ヒスパニック、67パーセント、アフロアメリカン、67パーセント)。両親が高校卒以上の学歴を持つ子供の68パーセントが自宅からインターネットにアクセスしているが、大学卒の親を持つ子供が82パーセントである。この差異は年収が中程度の親の子供のアクセス比率と同じである。年収650万円以上の家族の84パーセントが自宅からアクセスし、400万円以下の家庭が66%である。
学生が自宅からインターネットにアクセスしているかどうかは別として、子供達はアクセスを重要視している。高校生にテクノロジーは彼らの教育に重要かどうかを尋ねると、回答には以下の発言が含まれる。
ティーンエイジャーになる前に、生徒はWebを学校の課題研究のために広範に用いているし(94パーセント)、学校の宿題をするために役立つと信じている(78パーセント)。
テクノロジーは非常に浸透しているが、学生はテクノロジーに対してある限定された見解を持っている。
おそらく家庭のコンピュータやインターネットは電話と同じくらい定着している。インスタントメッセージは一般的なコミュニケーションであり、社交の機能を持っている。単に人にアクセスできるだけではなく、複数の人と、同時の会話を成立させることに役立っている。70パーセントのティーンエイジャーはインスタントメッセージを人との接触を保つために使っているが、それは友人や親戚と連絡を保っているためにイーメールを使う人よりは多少少ない(81パーセント)ものの、1,300万のティーンエイジャーはインスタントメッセージを使っている。オンラインで誰かと話をするのは暇をつぶすための情報世代のやり方になっている。別の研究によると、44パーセントの大人がオンラインをコミュニケーションの手段にしているのに対し、74パーセントのティーンエイジャーがインスタントメッセージを主なコミュニケーションの手段として用いている。彼らが大学のために故郷を離れると高校や子供時代の友人と連絡を保つために、インスタントメッセージをほぼ毎日用いている。41パーセントのティーンエイジャーは、電子メールとインスタントメッセージを教員や同級生と学校に関する連絡をとるために用いるようになる。実際、7級から12級の学生は同級生の家の電話番号よりも画面上の名前を知っている。
インターネットに何を求めているか問われると、“新しい情報を得るため”が最も一般的なティーンエイジャーの回答である。そのすぐ後に、彼らの75パーセントが“もっと、よりよく学習するため”と回答する。インターネットでの学習は学校の課題だけに限定されない。学校以外でも、自分の健康といった、さまざまなトピックの情報を求めるために、学生は学習する。オンラインコミュニケーションに参加するほかの一般的な活動では、他者に何ができるかを示し、意見を表明するために用いている。
大学生
18歳から22歳の普通の大学生は、よく新世紀人と言われる集団であるが、HoweとStraussによると、彼らは以下のような人間である。
コンピュータとともに育った個人は、前の世代と比較すると情報を異なる形で処理する。“彼らはハイパーテキストの感覚を持っていて、いくつもの画面を飛び回る。” 直線的な思考は複雑な思考よりも一般的ではなく、複数の知的資源から情報を得る能力がある。他の異なる点には、以下のものがある。
ネット世代についての多くのことが言えるが、高度教育への潜在的な影響を利点として指摘しているものもいる。
デジタルリテラシー
広範なテクノロジーに接して育ったネット世代は、様々なIT機器を本能的に使い、インターネットを駆使する。ただし、彼らはマニュアルを使わずにテクノロジーを用いることはできるが、彼らのテクノロジーや情報ソースの質に対する理解は浅い。
ネット世代は前の世代より視覚的にリテラシー能力があり、彼らの多くがイメージを用いて自己表現をする。イメージやテキスト音を自然に組み合わせることができるし、文章をリラシーを拡大し、実物とバーチャルを瞬時に行き来できる。しかし、バーチャルなメディアを利用できる反面、彼らは前の世代よりも文字リタラシーはあまり得意ではない。
ネット世代の学生は図書館よりもインターネットを研究に用いる(73パーセント)。問われると、3分の2の学生がWebを用いて有効な情報を得るやり方を知っていると回答する。しかし、彼らはまたWebだけでは彼らが必要とする情報すべては満たさないとわかっている。
接続する
“生きている限り、世界は接続する場所であり、ネット世代は他の世代よりネットワークメディアの可能性を把握している。”授業のための勉強から余暇活動へと、常に物理的に移動しながら、ネット世代は常に接続している。ある学生によると、“私は携帯電話の機能が好きである。なぜなら常に誰かと連絡をとれるし、どこにいこうと気にする必要がないからだ。”機器は環境によって変化するが(たとえばラップトップ、携帯電話)彼らは常時、接続している。
速さ
回答を期待する速さ、あるいは彼らが情報を得る際のスピードによるものなのか、ネット世代は早い。彼らは並行して、次から次の活動内容を変え、時として、同時期に作業を行う。ゲームをしたり、インスタントメッセージに回答する彼らの反応速度は早い。実際、彼らは正確さよりもスピードに価値を置いている。
実験的
ほとんどのネット世代は指示されるより自分でやって学習することを好む。ビデオゲームで育ったことの影響は不明であるが、ネット世代は自分や友人と一緒に探索しながら発見によってよく学習する。この探索的なスタイルは彼らが情報を保持し、それを創造的に意味のある形で用いるのに役立っている。
社会性
“豊かなコミュニケーションをするネット世代は活動に対し重心をおき、社会的な交流、例えば古い友人にインスタントメッセージを送付したり、インターネットゲームでチームを作ったり、Web日記(ブログ)をつけたり、イーメールの冗談を転送したりといったを社会的関係を強化する。ネット世代は多様性、差異、共有に対して、驚くほど受け入れがよく、ネット上の他人と気軽に会ったりする。インターネット上で、彼らは感情をオープンにするし、個人的な情報を共有する。ネット世代は必ずしも自分たちのグループに入れたにしても、個人的にかかわる必要がないという人間関係のメカニズムを持っている。個人的にも、オンラインでも、クラスでも他者との関わりを求めている。(時として、彼らの相互作用は他のアイディンティティと通じて行われる。ティーンの多くはオンラインの彼らのアイディンティティは彼ら自身のアイディンティティとは異なると感じている。)テクノロジーは人の個性を変えることはできないが、例えば、内向的な人はインターネットを外部につながる手段としても用いている。こういったイーメールを用いた社会的な関係は以前にもあったかもしれないが、外交的な人は友人の輪をさらに大きく広げることができる。
チーム
ネット世代はチームで学習し活動することを好む。ピアツーピアのアプローチは一般的であり、彼らはお互いを助け合う。実際、ネット世代は何に関心を払うべきかを決める際には、教員よりも同級生を信用している。
構造
ネット世代は達成に非常に重きを置く。“彼らは変数や、規則、優先順位、過程をもとめるが、彼らは世界は管理でき、誰もが日々の計画を持っているべきだと考える。”その結果、彼らは目標を達成するために必要なことを知るのが好きである。彼らはあいまいさより構造を好む。
取り組みと経験
ネット世代は帰納的な発見や観察をすること、また仮設をたてて、規則性を見出すこと傾向がある。彼らは対話を切望する。そして講義が対話的ではなく、取り組む形式でもなく、単純に進みが遅いというだけで、注意を向ける必要はないと選択するのは、彼らが情報を得るのに好む速度ではないからである。
視覚と運動感覚
ネット世代は文章よりもはるかに画像が豊かな環境を心地よく感じる。研究者たちはネット世代の学生はそれが長文の課題や長いインストラクションであっても、大量の文章を読むことを拒絶するだろうと報告している。ステップを明確にする文章のインストラクションから画像レイアウトを使ったものに変えたとたんに課題の提出率があがり、テストの成績も良くなった研究例もある。ネット世代の経験を好む性質は何か物事を考えたり、話たりするのではなく、実際にやることを好むことを示している。
重要な問題
ネット世代は気軽に地域活動に参加する。選択肢が与えられると、彼らは環境問題や地域の問題といった彼らが重要だと思う問題から取り組むことを好むように見える。彼らは、違いは作り出せるし、科学やテクノロジーを用いれば、難しい問題も解決できると信じている。
伝統的ではない学習者
短大や大学が最初のネット世代の学習者を卒業させると同時に、ほとんどのキャンパスには伝統的ではない学生が殺到するだろう。大学生の4分の3が伝統的な学生ではなくなると国立教育統計センターでは予測している。伝統的ではない学生は以下の特徴を一つ以上持っている。
伝統的ではない学生の特徴を持てば持つほど、入学年から卒業までずっと居続ける可能性は低くなる。伝統的ではない学生は教育機関の特定なタイプに集中する傾向がある。たとえば、コミュニティカレッジでは、半数の学生が高等教育に遅れて入学する。半数が二つ以上のやり通すのに危険な要因を持っている。逆に91パーセントの学生は高校卒業と同時に4年間の大学に行き、85パーセントは危険要因を持っていない。社会人学生は伝統的ではない学生の重要な分類を代表している。
大学にいく動機はネット世代と比較すると社会人学生はまちまちだが、社会人学生の70パーセントは学位獲得を目標とし、残りの30パーセントは証書や特殊な技能獲得を目標としている。
環境の産物
私達は自分の目で見た世界を見ていると言われている。私達の経験や私達を取り巻く環境は私達がいかに考え、行動をし、また活動するかを形づくる。出身地を考えてみよう。もし南部に生まれたら、南部なまりがあるだろうし、もしカナダで育ったなら、違った話し方をしているだろう。食べ物や服装の好みも習慣や表現の仕方同様、異なっているだろう。私達はすべて環境の産物であり、テクノロジーはその環境のかなり重要な部分となっている。
成熟者たち | ベビーブーマー | ジェネレーションX | ネット世代 | |
誕生年 | 1900−1946 | 1946−1964 | 1965−1982 | 1982−1991 |
名前 | 偉大なる世代 | ミー世代 | 鍵っ子世代 | 新世紀人 |
特性 | 命令と統制 自己犠牲 |
楽観主義 ワークホリック |
自立 懐疑的 |
希望的 決意 |
好きなもの | 権威への尊敬 家族 地域活動 |
責任 職業倫理 やればできる |
自由 並行作業 ワークライフバランス |
公共活動 最新のテクノロジー 両親 |
嫌いなもの | 無駄 テクノロジー |
怠惰 50歳になること |
官僚主義 まやかし |
遅いものすべて 否定性 |
他の特性も世代間の傾向を示している。(例えば、転職についてや、コミュニティの中心は何かといった態度)。最も際立つ特徴のひとつに、インターネットに対する態度がある。ネット世代にとってはインターネットは酸素であり、それがないと生きていけないものなのである。
単なる年齢による現象ではなく
これらの傾向は世代的に説明されるが、年齢自体はテクノロジーへどの程度さらされているかよりは重要ではない。例えば、ITを非常によく使う人はネット世代と同じ特徴をもっている。事実、テクノロジーがこれほど職場や家庭に浸透しているので、誰もがネット世代と同じような特性をもっていると考えることができる。たとえば、以下の質問を自分にしてみよう。
違いを作る要因はさほど一つの世代と他の世代の対立によらないかもしれない。むしろ違いは経験にあるであろう。世代間の問題は高等教育と関連している。なぜなら大学の教員や事務職員とその学生の見解はかなり異なるからである。
意味合い
ネット世代が純粋に世代による現象なのか、テクノロジーの使用によるものなのかは、短大や大学にとって大きな意味がある。ネット世代の思考方法と教員や事務職員の間には大きな溝がある。
テクノロジーではなく
ネット世代の学生は本能的にITをかなり教育に使いたいと考えると想定されるだろし、個人的な生活場面では実際そうであるが、ネット世代の学習者にどのテクノロジーを使いたいかを問うと、彼らは何も答えられない。彼らはテクノロジーによって考えない。テクノロジーが可能にする活動によって考える。一般的にネット世代はインターネットをアクセスする道具、制限のある資源というより情報ソースを配信する媒介と考える。
テクノロジーについて問うと、学生の定義は新しいテクノロジーに集中している。例えば、新しい機能をもった携帯電話はテクノロジーと考えられるが、あたりまえの機能をもつ携帯はあたらない。私達はブログやwikiを新しいテクノロジーと考えるかもしれないが、学生からするとテクノロジーではないのである。
テクノロジーの仕組みよりも、テクノロジーでできる活動がネット世代にとってより重要である。例えば、インスタントメッセージはテクノロジーとは考えられない。インスタントメッセージを送るのは動詞であり、活動であって、テクノロジーではないのだ。学生はテキストメッセージやインスタントメッセージをあらわすのによく“話す”という言葉を使う。ソフトウエアは背景と混ざっていて、それはある活動を起こすことができるが、新しくて、珍しい、自分で変更可能なものではないと考える。これらすべてがネット世代のテクノロジーの定義である。
学生のオンライン学習の満足度はオンライン学習についての私達の仮説を実証する。ネット世代が多くの時間をオンラインで過ごすので、彼らがWebベースの講義を強く望むと期待するのは妥当である。セントラルフロリダ大学の研究で示されたように逆も真なりである。年配の学生(成熟世代やベビーブーマー)は18歳で入学してくる学生よりも完全なWebベースのコースにより満足することがわかった。これは、Net世代は高等教育に期待するのと同じように人や社会と関連をもつことを強く望むことに理由がある。18歳入学の学生はオンラインではなく、教員や他の学生と学ぶために大学に来たとしばしば言う。
古い世代の学習者は学習の社会的な側面にはあまり興味がなく、利便性や柔軟性がより重要である。
学生のテクノロジー調査の結果から、大半の学生はクラスで適度にITを使うことを好んでいることがわかった。学生はオンラインでシラバスや読書課題、オンラインでの履修申告はありがたいと思うが、彼らは対面の相互作用もまた望むのである。しかし、年毎に、対面の相互作用はあらゆる学生にとっての一番か二番目に順位づけられており、学生は同期であれ、非同期であれオンラインの学生はすべての相互作用を含めて、オンライン学習には何か重要なものが欠落していると感じるというディスタンス学習についての研究結果と重複している。
このことは、短大や大学でよりテクノロジーを導入することが望ましいという仮定すべきではないことを意味している。テクノロジ−を用いて、可能となるあるタイプの活動については非常に評価されている。例えば、ワイヤレスのネットワークによって学習者が自在に移動して、常時接続できる。テクノロジーを使って、カスタマイズや利便性、協調性が高まることは非常に受け入れられているが、テクノロジーを大学の授業やカリキュラムに統合することは、学生の私生活ほど導入されていない。
コミュニティと社会的ネットワーク
ネット世代はチームや同級生と一緒に学ぶことを好み、現実とバーチャルと境目なく移動することがわかっている。学生が一緒に勉強をしながら、すぐ近くにいる相手に、インスタントメッセージをすることは目撃されている。彼らのコミュニティや社会的なネットワークは現実でも、バーチャルでもあり、両者の入り混じったものである。個人的というのは、必ずしも、ネット世代にとっては、‘実物’である必要はない。オンラインでの会話は対面での会話と同じだけ意味のあるものである。教員との対話も対話でなくても、価値があり、個人的なものである。
ネット世代はネットワークを縦横に使い、社会的な交流をする。彼らの私生活、仲間のリスト、バーチャルなコミュニティ、フリッカーやオークットという社会的ネットワークは非常によく使われている。“コンピュータのユーザーに彼らがコンピュータを使って実際にやっていることを調べると、常にある種の社会的交流、例えば、会話、共同作業、ゲームをするといったことがリストのトップに現れる。ソフトウエアは、コンピュータをブラックボックスのように作られているが、実際、私達の行動は、コンピュータを社会への入り口への道具として、コンピュータをドアのように扱っているようだ。
ネット世代は感情的にオープンで、インターネットを彼らの感情や見解、新しい人に出会い、異文化を経験する社会的テクノロジーとして使っている。オンラインでの情報交換には単に事実だけではなく、感情も含めた莫大な個人情報が含まれている。
コンピュータゲームは大半なネット世代のはけ口になっている。学生はチームでゲームをする。ゲームに関連してオンラインコミュニティが形成され、より参加者が加わり、一緒に勉強を分かちあう。“ゲームはプレイヤー間の協力を促進し、対面式の学習や学習コミュニティの出現させる。インターネットで人気のあるゲームをみると、ゲームプレイヤーのゲームについての議論や、ゲーム攻略のヒントやゲーム作成者への批判をする強固なコミュニティを見つけるだろう。
本人自身の学習
学習は参加するものであり、知ることは実践と参加にかかっている。デジタルな情報源はネット世代の好みに合っている実験的な学習を可能にする。誰かに教わるよりもネット世代は自分自身で学習し、さまざまな情報源から情報や道具、フレームワークを構築することを好む。
デジタル情報の貯蔵庫により学習のための生のデータが提供することができる。例えば、Valley of the Shadowという貯蔵庫(http://www.educause.edu/LibraryDetailPage/666?ID=pub7101)を使い、学生は南北戦争の北軍と南軍についてほとんどのオリジナルデータを南北戦争についての自分自身の結論を導き出すことができる。国勢調査のデータ、農業関連の記録、新聞記事、教会の記録、兵士とその家族の手紙がオリジナルソースを構成し、これにより学生は本人自身の学習に従事することができる。このサイトは正式なあるいは非公式な学習者が利用できる。グーグルによると、ウェブ上で南北戦争について最もアクセスが多いといわれている。
オンラインの実験室や遠隔教育のツールを用いて学生は専用ツールを使って、データを分析し、操作できる。たとえば、iLabはWeb画面から学生はサーキット分析につながる。オンラインのインターフェイスはMITの学生だけではなく、彼らが実験しようとするときはいつでもどこでも他の大学の学生も使える。
シミュレーションと視覚化によって学生は自分の結論を検討し、導くことができる。これが他の形の本人自身の学習である。ゲームやロールプレイによって学生は自分の分身が教えられるのではなく、そこにいることで学習する機会を与えられる。例えば、CivilizationIIIというゲームは学生が伝統的な学習教材を使うための推進力になる。地図や、文章、教育フィルムといった伝統的資源を取り替えるかわりに、ゲームは学生をよりよく使うことを促進する。学生は6000年にも及ぶ政治、科学、軍隊、文化、経済といった複雑さに対し、ゲームに勝つために対処しなければいけない。そして、彼らはゲームに成功するために複数の分野の情報を統合しなければならない。
相互作用
ネット世代の社会性は実験的な学習を望むのと同様に、相互作用は短大や大学で用いる重要なテクニックを意味する。相互作用の重要性は新しいものではなく、学習科学において学生が教材や、学生相互に、また教員と交流すればするほど学習が進むことを常に示されてきた。話す、文章、テストというアプローチはほとんどの学生にはあまり効果的ではない。学生は彼らが自分の知識を積極的に構築するときによい効果が出る。加えて、相互作用と学生の停留率には強い正の相関がある。
伝統的な講義における相互作用のレベルは低い。伝統的なクラスでは1時間に0.1回の質問があり、教員は0.3回たずねると見積もられている。テクノロジーは学習者に常にどこでも内容と相互作用を提供できる。しかし、コンピュータベースの相互作用は1時間に1回から180から600回へと増加した。
ネット世代の短い注意保持力は相互作用がインストラクションの重要な部分であることを示している。彼らは“相互作用、あらゆるすべての行動に対する即座の反応である相互作用を渇望している。伝統的な学校では彼らのほかの世界と比較すると、ほとんどそういった相互作用が与えられない。
すばやく、多重タスクで、自由にアクセスでき、最初に画像が与えられ、積極的で、接続でき、楽しく、空想的で、即座の報酬を与えてくれるビデオゲームやMTV、インターネットに慣れているデジタル世代は、今日の教育に飽きている。しかし、それ以上に悪いことには、新しいテクノロジーが実際に向上させた(たとえば並行処理、グラフィック重視、ランダムアクセス)彼らにとって深い意味のある多くの技術はほとんど完全に教育者に無視されている。
相互作用はクラスルームに限定されない。非公式な学習は公式な場面での彼らの学習よりはるかに長い時間占めている。非公式の場面でピアツウピアの指示、統合、そして反映といった相互作用のタイプは非常に重要なものになっている。実際、“相互作用が教室に限られているとき、学生の学習スタイルの全体像はまったく見えない。”
即座性
“デジタル世代は本当に早く情報を得ることに慣れている。彼らは並行処理や複数作業を好む。彼らは即座の満足を渇望する。即座性に対する期待は友人や、サービス、質問の反応に対しても真実である。1人の学生によれば、”どんどん早くなっているインターネットのスピードが好きだ、なぜなら、今情報がほしいのであって、あとではないからだ。“
ネット世代は常時接続と即座の反応を期待しているが、これはしばしば非現実的な期待である。教員は即座の反応ではなく、イーメールの返答に期待してもらったほうが助かるだろう。なぜなら週末であれば、返答は48時間の猶予があるからだ。
複数のメディアリタラシー
ネット世代は小さい頃から複数メディアにさらされている。Prenskyは彼らが21歳になるまでに読書よりもビデオゲームに二倍の時間(1,000対5,000)を割くことになると推測している。ネット世代は古い世代よりもより視覚的なりタラシーを持っている。多くの人が画像を用いて個人表現をするのが得意である。彼らは文章だけよりも画像が豊富な環境が快適である。
時として、教育者は文章を読むことが教員や、図書館員、他のアカデミックにいる人の望む形態かもしれないが、人口の多くが望む形態ではないことに気づいている。平均的に学生は読んだものの10パーセントを覚えているが、見たものは30パーセント覚えている。ネット世代による読書はWeb上のものであり、彼らは読むよりも斜め読みにする。
実際、文章に比重を置くことはネット世代の参加には禁じられている。ネット世代は“文章よりも画像を好む。”あるコース(CSUヘイワードの図書館1010)では、多くの学生は広範な書かれた指示は処理できない。彼らは指示を推察するか、不完全な課題を提出するだろう。宿題が文字よりも絵を最初に示したものに変わったときに課題の未提出は落ち、(10〜14パーセント)、学生の成績は良くなった(11〜16パーセント)、試験の前後のテストでは4〜9パーセント上昇した。
正しい質問をする
学生が理解をしていると仮定をするのは簡単であるが、しばしばネット世代と教育者や職員の見解には差異がある。その結果、短大や大学は正しい質問をし、現在の学生の状態が私達の状態と同じだと想定しないことである。短大や大学関係者がすべき重要な質問には以下のことが含まれている。
学生を教育することが短大や大学の最も重要な目標であるが、その目標に達成するかどうかは学習者を理解することにかかっている。ネット世代を理解することによってのみ、短大や大学は彼らの長所を最大化し、弱点を最小化する学習環境を作り出すことができる。テクノロジーはネット世代を変えてきたように、高等教育も現在変えつつあるのである。