特集 大学教育への社会の期待
一般に、学生は大学や大学院を卒業すると、社会人となって社会を動かす立場となる。大学はその立場に立つための訓練の場と言えよう。では、社会とはいったいどんなところか。それは、究極的には「絶対解のない世界」である。「絶対解のない世界を動かすための訓練の場」、それが大学ではないだろうか。そして、それこそが大学と他の教育機関との根源的な違いであろう。「大学教育を受けた人材」とは、「その訓練を高度に施された人材」であり、企業は、結局はその完成度の高い人材を求めるのである。では何が求められるのか。
第一に、「自分で考え、自分で判断し、自分で行動すること」である。企業ではどんな仕事でも、「課題を抽出し、対策を立案し、実行する」というプロセスを辿る。新入社員と社長の違いは、乱暴に言えばその対象の時間的空間的な大きさの違いである。課題は与えられるものではなく、対策は誰かが考えてくれるものではない。ましてや、誰かがやってくれるものではない。第二に、「理由と結果を考えて行動すること」である。世の中やってみなければわからないことは多い。しかし、企業ではただ闇雲に「やってみます」ではすまされず、仮にそれで成果が出たとしても、「たまたまの成果」であって再現性はない。常に、結果を想定し仮説を立て、行動し、検証することが求められる。第三に、「言語力」である。言語表現には、書いていないことも含めて表現する「情緒芸術表現」と、事象を正確に表現する「論理表現」がある。この違いをきちんと理解した「言語力」を持たないと、コミュニケーションにおいて思い込みや誤解等が生じかねず、これは、特に目に見えないお客様の要望を取り扱うITの世界では致命傷となりかねない。そして、それらすべての基礎として求められることが、「まともな常識」と「協調」である。「独創」と「奇抜」は違う。「個性的」と「わがまま勝手」は違う。まっとうな社会人は常識を知り、協調することができなければならない。では、どうすればいいのか。
そんな人材になるための絶対解は、それこそあるわけがないが、大事なことは、「意識して多様な意味のある経験」を蓄積することであろう。大学という自由な時間空間を利用して、様々な分野に興味を持ち、様々な多くの接点で交流し、多様な経験を積むことである。そして、その積むべき経験の中の非常に重要な一つが「勉強」による知力の訓練である。特にITのように高度に知的なフィールドでは、知力の訓練は絶対である。そのために大学はどうすべきだろうか。
大学の顧客は誰か。まずは学生だろう。学生に対して大学が提供する商品は、社会へ出る訓練を施すことである。具体的には、多様な経験を積むフィールドを与えることだが、特に「答えなき世界」に学生を送り出す大学が行うべき教育は、「知力を徹底的に鍛える」ことであり、そのための「答えのない問題を解く徹底した訓練」であるべきである。そして顧客のもう一つは、学生の供給先、つまり社会であり、企業である。大学は、企業に対しては、「どのような能力を持ち、どのようなことができる学生を育成しているのか」を具体的に明確にし、それを明示することが求められよう。
日本の資源は知力のみである。グローバル化が進展する中で日本全体が発展し続けるため、国力の基盤となる知力を支える大学教育の役割はますます重要である。