教育事例紹介 政治学
通常、「導入教育」という言葉は学科や学部単位で学期・年間を通じたカリキュラムとして用いられます。しかし、狭義には教員個々の講座にとっては、最初の授業が講義全体への導入を意味するでしょう。特に政治学は教職課程で必修とされているためほとんどの学部で1・2年時に設置されます。したがって、政治系の学部・学科を除くと、実際に設置されている講座「政治学」の多くは、カリキュラム上、独立性の高い科目であるため導入教育について、学系としての組織的な対応がしにくい講座なのではないかと考えます。
このような科目配置の特性を持つ政治学に対し、政治学に主たる関心を持っているわけではない学生たちはガイダンスで履修の是非を決定するのです。教員にとってこれは90分・1コマ限りの勝負となるわけです。ガイダンスの理想は、学生に政治学へ強い関心を持ってもらい、履修した以上は、毎回、熱心に講義を聴く決意をしてもらうことです。履修の動機を「簡単で面白そう」ではなく、「難しいけど面白そう」にしなければなりません。
そのためには、第一に、成績評価の仕方が非常に重要な位置を占めてきます(学ぶ姿勢の動機付け)。第二に、政治や政治学への興味を身近なところから持ってもらうように工夫することです(政治学への動機付け)。
第一の点は、政治学と限らずすべての講座に共通する問題となりますが、筆者のような試みをしている事例は少ないと思われるので簡単に紹介をしておきます。筆者は、出席回数と成績評価、そして、平常点と成績評価の因果関係を表にして学生に伝えるようにしています。なお、データは2007年度に履修した学生に対する前年度の結果の説明になるので、2006年度のものです。
表1 出席回数と成績評価の因果関係 ※出席の平均回数は7.98
表1は出席回数そのものは評価の絶対的な基準ではないことを示しています。毎回、出席していても、平常点や、期末試験が悪いと厳しい評価になります。昨今の大学教育では出席は当然であるという前提が揺らいでいる面があるので、これを改善するための試みです。
さて、政治学の講義ですから、ここで国会代議士の国会への登院回数をめぐる議論を紹介します。「毎回、議会に出ているというだけで君たちはその政治家を評価しますか?」「議会を欠席するような議員に君たちは何を感じますか?」と問いかけます。このような問いかけは携帯端末を活用した選択式アンケートにより、その場で回答の集計結果を提示したりすることも効果的です。ICTの活用により、他人事を他人事にしないということが、その場で、スムーズに実施できるわけです。
次に、平常点と成績評価の関係を見ます。「平常点の偏差値」とは、毎回、授業時に行った小レポート(記述式)の総合成績です。平常点は低いが成績の良い学生は、期末試験で頑張った学生です。つまり、平常点が思わしくなくても、期末試験で逆転の機会があることを示しておきます。
表2 平常点と成績評価の関係
数値だけでは暖かさに欠けてしまうので、学生の声を伝えるようにしています。例えば、小レポートでは記述式が中心ですから、学生、一人平均で2,585文字、総量にすると213,704文字の報告を受けています(2006年度)。この前年に履修した学生の言葉で、講義の案内を語らせるという方法をとります。これ以外に授業評価に際しての学生の意見や、期末試験の優秀な答案なども効果的です。
このように教員にとって効果的な導入教育とは、単年度ではなく複数年度に及ぶ情報の蓄積と分析が重要です。しかし、この履修人数で、毎回、小レポートを課し、その結果をデータとして蓄積し、分析することは、教員にとって大変な労力です。報告者の場合、携帯電話を活用した授業改善に取り組んできたので、労力は大幅に減じたと言えます。明治大学では携帯電話によるアンケート、小テストといったことが手軽に実施できるシステムの実験が2003年から行われ、2007年からは全学システムに移行しました。このシステムの活用がこのような授業運営を可能にしたと言えます。また、教育支援の基幹システムとして2003年、特色GPに採択されたOh-o! Meijiがあり、携帯では配布できない資料にこれを利用することができます。つまり、教室へのPC端末の配備がなくても携帯を通じた教育情報化が可能であり、容量の多いデータは基幹システムを利用できる体制が整っています。
政治教育の場合、大きな壁が学生たちの根深い政治不信です。もっぱら「裏の」、「力関係」だけにより物事が決められるという先入観が強く、実際に政治の現場で求められている専門性の見識、問題の多様性や複雑性、程度の差異の重要性といったことが理解されない傾向にあります。この壁は政治学理解への壁でもあり、実のところマスメディアが作りだしたものです。実際、ある学生は「(国会)議事録がホームぺージで閲覧できることも今日はじめて知った。驚いた。やはり、私の政治に対するイメージはほぼテレビからである。そのテレビでは毎週(毎日?)
のように議員の居眠りを流しているのだからそう思ってしまってもしょうがない」と述べていすま。政治を単なる批判と愚弄の対象から、客観的な分析の対象へと変えていく契機が必要です。
それには、この学生が指摘した国会議事録Webが非常に有用です。さらに、衆議院及び参議院のホームページで提供されている審議中継は、政治の生の現場を見せることで、高い動機付けの効果をもたらします。衆議院については平成18年12月20日以降のものを、参議院については1国会分の審議中継を閲覧することができます(2008年3月19日現在)。次の学生の指摘はその効果を集約的に表現したものです。
「今まではメディアを通じての国会答弁や評論家の意見から先入観の下に政治や社会情勢を見ていたのだ。ショックと同時に知って本当に良かった。私は首相(安倍晋三)のやり方に疑問を感じていたが、施政方針演説を聴いてイメージが変わった。文章や他の人からは伝わってこない力強さを感じた。今は気合いが空回りしている感は否めないが、リアルなスピーチを聴かないでイメージで判断していた自分が情けなかったし、知らぬ間に私たちはメディアに操作されていることを思い知った」
おそらく政治学の教育研究は組織的な改善策が考えにくい分野です。それは、例えば、政治学のコアカリキュラムを考えた場合、何をコアとすべきかという議論に、多くの研究者は次のような懸念を抱くからです。コアを決定してしまうと、民主政治には必要不可欠な価値の多様性を損ねてしまい、特定の価値が政治共同体の意思決定に偏向した影響を与える結果を招きかねない、という懸念です。しかし、今回、導入教育の研究から見えてきたことは、政治教育では、価値形成の前提となる情報・データの収集や分析の仕方にコアを据えるべきであり、それならばこの懸念を回避することもできるのです。
また、議事録や国会審議中継が効果的であったことは、非常に興味深いことを示唆しています。そもそも、民主主義は公で討論や演説をするコミュニケーション文化を前提に成立します。他方、日本人は公に議論を行うことが不得手で、そもそも、討論や演説などを体験することなく成長し、「根回し」が意思決定の方法で大きな比重を占めています。しかし、教育情報化により、現在、欧米流のコミュニケーションの技法の一端(プレゼンテーション)を学ぶことが一般化してきました。今後、政治学の基礎教育には、意思決定のためのコミュニケーション技法が含まれることになるでしょう。
最後に、ある学生は、「議事録の量の多さに驚いた。一部の限られた報道を見て、政治家はあまりまともに議論をしていないのではないかと思ってしまっていたが、考え直すべきだと感じた」と述べていました。果たして、これはこの学生だけのことでしょうか?日本の有権者の多くが、一生、議事録などみる機会もなく過ごすのではないでしょうか。
もし、そうであるとするならば、今後、政治学における導入教育とは、有権者教育と同等のものと考えても良いでしょう。有権者の年齢を欧米先進国並みの18歳に引き下げるべきだ、という議論が出て久しいですが、もし引き下げられるようなことになれば、新入生にしっかりとした有権者教育を行うことを大学は社会から求められる時代が来るかもしれません。