特集 クラウドを考える
浜 正樹(文京学院短期大学英語科准教授)
文京学院大学経営学部では、ほぼ900人程度の学生を有しており、近年は初年次教育とキャリア教育を重要な戦略対象と位置付け、様々な教育改革に力を注いでいます。その教育支援のため、平成21年度4月にeポートフォリオシステムを導入しました。その際に、クラウド・コンピューティング、特にSaaS およびPaaSを利用して、教員の要求・要件を満たしたシステムを導入しました。本稿では、本導入案件に大学側のシステム管理者として携わった経験から得た知見を述べ、今後の教育活用への参考にしていただくことを目的とします。
本学経営学部では、平成16年度からアドバイザー制(教員1人あたり学生15人程度)によるアカデミックスキルの伝授や個別相談などの取り組みを行ってきました。
さらに、この数年で重要視されてきた初年次教育についても、平成20年度より改めて体制を整え、大学生学力低下への対策およびキャリア意識の育成を目標に対応してきました。そのためのツールとして、特に本学の学生向けに独自に作成したポートフォリオを活用しました。本稿では、ポートフォリオとは「学生の目標設定・管理と学習成果の蓄積・管理を目的とするファイル」と解釈することにします。
ポートフォリオの活用に関しては、教員から「学生が、些細なことでも、よく相談してくるようになった」、「面接指導がスムースになった」など、良い評価を得て平成21年度も継続する方針が確認されました。しかし、その一方で、「紙媒体のポートフォリオでは、管理が煩雑」といった問題点もクローズアップされ、早急に電子化するよう教員からの要求が挙がりました。
そこで、平成21年2月に担当教員と情報教育研究センタースタッフから構成されるeポートフォリオ要件検討チームを立ち上げ、次節で述べる通り必要な要件を検討しました。
一般的に、データの電子化に関しては、その範囲やセンシティブ度および保存や公開について教職員間のコンセンサスを得ていくことが重要です。今回扱うデータは、ポートフォリオへの記載内容ですが、本学の学生に合わせて作成したチャレンジ目標や週間スケジュールなど定型的な記述内容が中心で、学生のプライバシーや個人情報が含まれないことが確認されました。そこで、教員間では「仮に学外のサーバでのデータ保全となっても問題が発生しない」と判断されました。一方で、学生生活指導履歴管理システムのように、学生の個人情報やプライバシー情報を扱う必要のある場合は、学内で構築した別のOSSシステム(Maharaを採用)を活用して運用することにしました。つまり、用途に合わせて学外・学内のストレージで保全するデータを完全に分離することにしました。
次に、eポートフォリオシステムの普及といった観点からは、本学の場合、学生に対してよりも、むしろ教員にとって使いやすいインターフェースであることが重要です。そこで、「インターフェースが直観的で入力が容易であること」を要件にしました。ITスキルのばらつきが非常に大きい教員全体にeポートフォリオの定着を図るのであれば、本要件が非常に重要な位置を占めてくるのです。
さらに、近年は、入試の回数が激増するなど、授業期間外でも大学教員が新しいサービスの要求・要件を検討する時間を充分に確保できなくなっています。したがって、「仕様策定期間は3月に限定、運用開始は4月初頭」という納入までのスピードが極度に早い必要があることも重要な要件でした。
3.で述べたように、仕様策定と運用開始までの期間が非常に短いため、要件定義から順番に始めるシステム開発は候補から外すことにしました。そこで、基本的な要件を踏まえて、三つのソリューションを比較検討しました。
一つ目は、商用システムソフトウェアでしたが、非常に高額であり、導入対象が1学部1学年のみのという本案件では費用対効果を検討して断念せざるを得ませんでした。
次に、候補として挙がったのが、クラウド・コンピューティングのSaaSの活用でした。その一つは、インテグレーターGBSが導入支援するGoogle Apps の活用です。Google Appsは、文書ファイルやワークシートの共有が可能であるため、教員間の情報共有という観点からは非常に有用であると言えます。しかし、アクセス権の付与は、文書やワークシートを作成したユーザー自身で設定する仕様になっており、教員側や大学のシステム管理者側で制御できません。そのため、例えば、学生が自分の作成した文書を誤ってインターネットに公開してしまう危険性などを排除できない点が懸念されました。その後の調査で所属ドメイン外への公開を抑制する設定も可能であることが分かりましたが、委員会組織の教員間のヒエラルキーや教員と学生間のヒエラルキーをうまく反映するアクセスコントロールの実現が困難であることは問題点として残りました。
最終的に、インターフェースが直観的で操作性が高いことやアクセス権の付与機能も含めて、最も教員からの要求を実現していたのは、Salesforce社の提供するSaaSでした。実際のSaaSの実装としてはCRM (Customer Relationship Manegement)として提供されているため、そのプラットフォームをポートフォリオ用途にカスタマイズするPaaS「Force.com」を利用する案を採用しました。
一方、大学側のシステム管理者の観点からは、クラウド・コンピューティング特有のシステム要件にも検討が必要です。
Salseforceの提供するSaaSの場合、データの保存場所は、学外であると同時に国外のストレージとなります。当然、機密性・完全性・可用性のレベルについては把握しておきたいところですが、本サービスに関してはSLAなども存在していません(Salesforce社自体の運用は、セキュリティ監査基準SAS70TypeIIも完了、TRUSTeやプライバシーマークも取得しており、一定レベルの運用セキュリティが保証されています)。
そのため、情報漏洩、情報紛失、情報変換、法令遵守、情報破棄の安全性に関するリスクがあることを教員側に充分理解してもらった上で、今回のポートフォリオ用途では、学生の作成したデータを保全するとは言え、その情報のセンシティブ度は高くないと判断し、機密性・完全性については、Salesforce側の提供する要件以上には要求しませんでした。特に、ポートフォリオには、電子掲示板のような様式での学生による自由記述はさせない運用であることについては、教員間のコンセンサスを得ておきました。
また、可用性に関しても、特に心配されたのは、アクセス負荷に対する処理能力でした。一般に、大学の教育システムでは、授業開始時間帯などに極度のアクセス集中が懸念され、システムのスケーリングが難しい問題となることが多くあります。しかし、今回の用途に関しては、教員が一度に数人程度の学生を指導しながらデータ入力を行うことになるため、負荷は軽いものと想定されました。そのため、特別な専用回線確保などは要件に含めないことにしました。結果的には、現時点でアクセス負荷による障害は発生していません。
さて、実際のクラウド・コンピューティング導入に関しては、開発を含めた導入までの時間が短いことが大きな特長です。前述のように、大学教員が仕様策定に関わることのできる期間が限定され、しかも仕様策定終了後に、2〜3週間以内には運用を開始しなければならないというタイトなスケジュール要件を満たすことが可能となってきます。ただし、CRMを大学教育の用途にカスタマイズするため、その対象組織および対象ユーザーの違い、企業と異なる組織構造や利用目的について、開発側に理解してもらうことが重要なポイントです。
本案件のeポートフォリオ導入時の開発時間は40.25時間であり、3週間程度の開発期間(3/24〜4/15)であるから非常に速いと言えます。詳しい作業時間の内訳は次の図1の通りです。
図1 eポートフォリオ開発作業時間内訳
ただし、開発終了した後も、大学側にはSaaSシステムの管理権限がないため、7節に示した通り、学生登録など大学固有の運用に対応するためには時間的コストが大幅に消費されることがあります。実際のところ、本案件の導入から運用開始までは、Moodleの運用経験を3ヶ年有する本学のスタッフが担当しましたが、結果的には、ほぼMoodleの導入とほぼ同程度の時間的コストがかかっていたことは指摘しておきます。
その他、意外に手間取ったのは、契約期間やライセンス費用の算出方法でした。大学特有の事情として、教育支援システムの導入費や運用経費は助成金申請を行うことが多くあります。その場合、運用開始期間などは、文部科学省の指定した日時に限定されます。しかしながら、SaaSベンダーは、ライセンス契約を月単位・年単位で行うことが多く、場合によっては余剰金額を支払うことも有り得ます。この点も、ライセンス数によっては、運営コストに大幅に影響する可能性もあることに注意が必要です。
大学側の運用担当技術者の観点からは、システム管理インターフェースの柔軟性や、データのバックアップ手法とポータビリティが運用に大きく関係してきます。
現時点では、大学での運用に必要となる作業に関して手動作業が必要となっている箇所もあり、システム管理インターフェースには改善の余地が見られます。教育機関に特有の例を挙げると、本学ではセキュリティ教育上必要な措置として、学生の使用するシステムの初期パスワードを大学側で指定した乱数文字列に設定しています。しかし、今回の導入システムではパスワードの一括登録を行うことができませんでした。そこで、登録学生の全アカウントに対し、指定パスワード文字列を手動で登録する作業が発生し、その作業のために予期せぬ人的コストも追加で必要となってしまいました。
また、データのバックアップは、CSV形式でのダウンロードのみで、そのフォーマットもSalesforce社独自のコード体系を使ったものです。加えて、CSVデータの項目数が極端に多く、一般的な表計算ソフトで扱える範囲を超過するなどの問題も発生しています。したがって、必ずしも相互運用性が高いとは言えません。年度更新時などに発生する様々なデータ登録作業を、大学内のスタッフが行う場合、フォーマットの変更などには時間的コストが大きくなる場合もあることに留意する必要があります。
以上、クラウド・コンピューティングによるeポートフォリオ導入およびその運用経験を述べてきましたが、実際の導入後は使い易いインターフェース(図2参照)で教員にも概ね好評です。また、最近の学生はWeb入力に慣れているせいか、非常に熱心に活用していると報告されています。さらに、予想外のことでしたが、教員間でeポートフォリオシステムへのアクセス回数や指導回数が閲覧可能であるため、教員による指導体制のばらつきを是正することが容易になったという点も記しておきます。
大学のシステム管理者の視点からは、現時点では、大学の教育現場へのSaaSの導入は不安要素が多いと言えます。特に、データの保全やシステム可用性といった観点を考えると、躊躇する要因をいくらでも挙げられてしまいます。
しかし、本案件のように、SaaSのリスクを大学側でも熟知した上で、運用でリスクを回避していくことも可能でしょう。また、クラウド・コンピューティングの市場にも教育現場の要求に応えるような成熟が実現されることを願っています。
さらに、将来的には、ベンダーのサービスとしてインターフェースが提供され、ストレージは大学側で提供・管理できるようなフレームワークが登場してくることも期待しています。現在、本学でも国内ベンダーへの移設など様々な手段を検討しており、利便性やセキュリティの向上を図っていく考えです。
図2 チャレンジ目標大学生活計画表