特集 教育情報を活用した情報戦略
大学設置基準において平成23年4月より大学の教育情報の公表が義務化された。これは、大学の使命とする人材育成の取り組みを外からわかりやすく見えるようにし、大学の志願者や在学生、父母、そして国・社会に対して、大学としての役割と責任を明らかにすることを意味している。教育情報の公表を義務と捉えるのではなく、大学が組織的に教育の質的向上に努めている工夫・改善や課題を主体的に発信することで、大学の存在価値を高めることができると考えられる。また、その結果を学内に向けて透明化・周知化することで、大学構成員全員が課題認識を共有化し、組織的な変革や発展的な成長に向けた行動を可能にすると考えられる。
本特集では、教育情報の公表に向けた大学の課題を知見のある方々から提示いただき、教育改革を推進するための教育情報公表の積極的な活用や、国際化に対応した戦略について認識を深めたい。
金子 元久(国立大学財務経営センター教授 研究部長)
情報開示の義務化や大学情報データベースの設置など、大学の情報公開への動きが強まっている。それを外圧として捉えるだけではく、大学の自己革新への軸として戦略的に位置付けることが必要だ。
なぜ今、大学に情報公開が迫られているのか。
日本の大学が18歳人口の減少を背景として重要な問題に直面することは、これまでもよく指摘されてきた。しかし、問題はそれだけではない。むしろ問題は日本の社会経済の変化に根ざした、構造的なところにある。
その一つの象徴が、大学卒業生の就業状況だ。大学卒業生の就職内定率が落ち込んでいることが報道されているが、それは最近の問題ではない。実は日本の大学卒業生の就業状況の落ち込みは1990年代半ばから始まった、学校基本調査は毎年5月にその年の大学卒業生の卒業後の状況を集計しているが、大学卒業生のうち、就職も、大学院への進学もしていない、無業・不明者の割合は1990年代終わりに3割程度に達し、その後、一時的な改善はあったものの、ほぼこの水準が10年程度続いている。
もう一つの象徴的な現象は、貸与奨学金(学生ローン)を借りる学生の急増だ。日本学生支援機構の貸与奨学金(無利子・有利子)を借りている学部学生数の割合は、1990年代の終わりまでほぼ1割程度であったが、2000年代に入って急伸し、2005年に25パーセント、そして2009年には35パーセントに達した。この間の大学就学率の拡大はローンによって支えられていたのである。
こうしてみれば、ローンによって進学させているにもかかわらず、その結果として3割近くの学生が、無業状態に陥っていることになる。社会が高等教育に極めて厳しい目を向けるようになっているのは当然と言えよう。
こうした状況は、大学が作り出したものでは必ずしもない。むしろ、日本の社会そのものがここ十年ほどで急激に変化したことを背景としている。就学率の拡大の背後にあったのは経済成長ではなく、経済のグローバル化を背景として、製造業が中国などに流出し、高校卒業者の就業機会が縮小したことであった。しかし、こうして増加した大卒者に対して、大卒者の就業機会も停滞しており、結果として大卒者の就業状況は悪化せざるを得なかった。他方で家庭所得も停滞していたから、就学率の増加は、経済的にはローンによって支えられることになったのである。
しかしそれは、大学には責任がないことを意味するのではない。日本の社会経済構造は今、大きな転換点にたっているのであり、様々な側面で次の発展の方向を見出そうとしている。その中で、高等教育も自己改革を進めることが求められている。知識の府としての大学が、思い切った改革を行えるか否かが、日本の構造的な改革の試金石になるといっても過言ではない。
では具体的にどのような改革が求められるのか。今はっきりしていることは、理想の高等教育のモデルが、具体的に明らかになっているわけではないということである。日本の高等教育が、一つの金縛りにあっているかに見えるのは、完全な理想像を描き、それにコンセンサスを得ることを待っていることにあるのではないだろうか。むしろ重要なのは、果敢に様々な改革を行い、その成果を検証して、新しい改革につなげていくことであるように思われる。
そうした視点から高等教育を振り返ってみると、大学に与えられた自律性の理念そのものを問い直す必要があるのではないかと思えてくる。大学は自ら主体的に行動することによって、活発な教育研究を行うことができ、それによってかえって社会によりよく貢献できる。そうした理念自体に間違いはない。しかし、社会が大きな構造変化に直面しているときには、そうした自律性が、大学の閉鎖性を生じさせ、改革を妨げる要因ともなり得る。自律性を原点としながらも、社会との交流の中で、自己改革の動きを作ることはできないのか。
このような意味で、キーとなるのが「情報」である。大学の情報公開が今、高等教育政策の上で着目されるのは、そうした背景からみれば、当然であるとも言えよう。日本の高等教育が社会から不信を持たれているとすれば、高等教育がまずその透明性を求められる。同時に、高等教育の質的保証という観点からも、現状の大学設置認可、適格認定は社会からみれば、いわば大学の仲間うちの話である。社会の構成員が、大学についての情報を、必要に応じて見ることができること自体が、新しい段階の質保証の必須の条件となる。
しかしもっとも重要なのは、高等教育が全体として、前に述べた自律的な改善を行っていく上で、情報が不可欠なことである。それを考えるために、高等教育改革を、三つの軸からなるものと考えてみる(図)。
図 大学教育改革と情報のフィードバック
第一の軸は、資源配分とガバナンスである。大学の古典的な自治モデルでは、大学は大学自身の判断によって行動を決めることになっていた。しかも、特に大学教育の面ではカリキュラムの決定は学部・学科の決定事項であり、さらに個々の授業は、教員の裁量に任されていた。政府や適格認定団体、あるいは市場は重要な影響を間接的に与えていたが、実際の大学の行動、特に教育研究のあり方は当事者に任されていたと言えよう。しかし、大学に対する社会の要求と、大学のあり方が大きく乖離しているとすれば、社会の中で、あるいは大学の中でも、より開かれた関係を構築することが求められる。
第二の軸は、大学教育の具体的な機能である。これまで大学教育については、その理念が語られることは多かったが、必ずしもそれが大学の具体的な行動とどのように対応するかが明確に捉えられていたわけではない。しかも教育については、カリキュラムや設備、授業時間については意識されていたとしても、学生がどのように学習し、それが結局はどのような知識や技能の獲得につながるのか、さらにそれが卒業後の職業生活にどのように結びつくのかについては、必ずしも明確に捉えられていたわけではない。しかし、大学教育が実質的に改革されなければならないとすれば、大学教育の成果(アウトカム)、そしてそれに至るプロセスをも問題にすることが不可欠であろう。
ここで重要なのは、この二つの軸が独立に機能しても、その効果は薄いということである。社会が大学の教育に何らかの影響を与えるとすれば、その根拠は社会の中で大学教育がどのような機能を果たし、それがどのような問題を持っているか、という点でなければならない。大学が組織として、個々の授業の改善を進めるとすれば、それは、大学の教育が全体としてどのような成果をあげ、そこにどのようなプロセスがあるかが把握されていることが条件となる。
こうした意味で、大学教育の実態をそのインプット、プロセス、アウトカムの局面のそれぞれについて、具体的に把握し、その問題点を評価した上で、それを社会、あるいは政府、大学団体、さらに大学とその構成員に、フィードバックすることが、高等教育改革を進めるうえで不可欠だと考えられる。情報は、ここでまさに高等教育改革のキーとなるのである。
それをさらに具体的に、個別大学における大学教育のガバナンスと、情報のあり方について考えてみたい。
これまで大学の「経営」は、いわば財務管理上の問題として捉えられてきた。あるいは授業料収入と、施設設備、人件費とのバランスが主要な要因であった。そうした意味での経営が重要であることは当然だが、その限りで必要となる財務関係の情報は、どの大学においても必ずしも不足しているわけではない。
しかし前述のようにいま、大学に求められている最大の課題は、大学教育の実質化・高度化である。同時に、大学教育の改革に要する財政的な資源は限られている。大学教育の質を限られた資源の中でいかに効率的に高めるかが問われているのである。そうした観点からみれば、これから大学経営の課題はむしろ、より効果的な教育を行うために、大学の資源をどのように配置するか、という点になろう。そしてこの点からみれば、大学が今持っている情報は極めて乏しい、といわねばならない。
確かに教員数、学生数、授業数、卒業者数等についての、いわば外形的な「あたま数」については、大学は既に十分に把握しているであろう。しかし大学教育のアウトカムという観点からみれば、そうした外形的な数字は必ずしも大きな意味をもたない。むしろ重要なのは個々の教員がどのように時間を使い、どのように授業が設定されているのか、学生はどのように時間を使い、授業に参加しているのか、それがどのような効果を生んでいるのか、といった点についての情報であろう。そうした、いわば個々の構成員の行動や意識にかかわる情報を十分に備えている大学は少ない。
ではこうした構造的な情報はどのような意味をもつのか。我々はここ数年間、科学研究費補助金を得て、大学生や社会人、大学職員および教員についての大規模調査を行ってきたが[1]、その結果をアメリカの同様の調査結果と比較して見えてきた問題点がいくつかある。第一は学生の学習量が少ないことだ。ただし、授業への出席時間が少ないのではなく、授業に関わって自分で行う学習時間が少ない。第二は、教員の担当するコマ数は平均で8コマ程度で、アメリカに比べてかなり多い一方で、少人数の授業が多い。ただし教員の教育に使っている時間は多くない。第三にその結果として、いわば「薄い」授業を多く行っている。それが学生の学習時間の少なさにつながっているのである。
こうしてみると、日本の大学教育は、資源を有効に活用しているのかが疑問に思えてくる。授業数を整理して、個々の授業に教員が時間を使い、学生の学習時間を増やすことが、より効果的な教育につながるかもしれない。
これはまだ仮説に過ぎないし、大学や専門領域によって事情は大きく異なる。ただ、ここから言えるのは、こうした情報をもとにすることによって、かなり抜本的な見直しが必要であり、有効であることがありそうだ、ということである。そのためには、個々の大学でこうした情報を戦略的に抽出していくことが必要である。
また抽象的に改革の必要性を説くよりも、意味のある情報を戦略的に得ることが、大学構成員の主体的な参加を得るきっかけとなりえることにも留意しておきたい。教員は研究者でもあるから、説得力のある情報を与えられれば考えざるを得ない。また職員がこうした情報の抽出に主体的に関わることも、大学全体として自律的な改革に取り組む重要な要因となりえる。
いずれにしても、「情報」は大学の自己革新に極めて重要な役割を果たし得る。そのためには情報を表面的に捉えるのではなく、その抽出と利用を戦略的に位置づけることが求められるのである。
関連URL | [1]http://ump.p.u-tokyo.ac.jp/crump/ |