巻頭言
原田 規梭子(東洋学園大学・学長)
1867年、明治維新を迎えた日本新政府は、国力を発展させるために教育の充実に力を注いだ。しかし、女子高等教育については20世紀の到来を待たねばならない。私立女子大学としては、1900年、津田梅子が女子英学塾を設立。1901年、成瀬仁蔵が日本女子大学を創立し、1918年、北米の宗教団体の援助で東京女子大学が生まれ、新渡戸稲造が学長となった。こうして日本の私学女子高等教育は20世紀に入って大きくうねり、そのうねりの中で1926年、東洋女子歯科医学専門学校が、本郷壱岐坂にその産声を上げた。
漢学者宇田尚は、実学教育で女性歯科医師を育て、深い人間教育に裏付けられた女性の経済的自立をはかろうとした。学校は3年後1929年には、600名という在籍数を記録する。その後、アジア各国から留学生が集まった。140人という当時の留学生の比率は、ほかの学校に比べて極めて高い。
宇田尚は、『自彊不息』の精神、すなわち、たゆまず、日々、自分で努力し続けることを、学生に提唱した。この言葉は「易経」の中にある言葉だが、「易経」は、変遷し変わりゆくものごとの理を説いている。「易」という文字は、変わるという意味である。学びによって、自分が変わり、社会を見る目が変わり、社会を変えていく力を培う。その精神は、深く学生たちに浸透していった。
戦後GHQによる学制改革に、東洋女子歯科医専は応えることができなかった。東京大空襲で本郷校舎を消失し設備一切を失ったのである。さらに歯科医師にも国家試験が導入されることになり、廃校の決まった状況下で、22回生たちは、当時の教員の血の出るような熱い指導のもと、国家試験を受け、合格率全国2位を誇ったのである。まさに学園に自彊不息の精神が横溢していた。
宇田尚は第一線を退き、1950年、宇田愛夫人を学長に、東洋女子短期大学英語科が生まれた。英語を使う時代が到来することを見据え、一般教養の涵養と実用英語の習得に重きをおいた教育を始めたのである。学園内に『自彊不息』は生き続け、東洋女子短期大学は、多くの中学校教師を育て、実業界にも進出し「英語の東洋女子」との評価を受けるようになった。やがて、時代のニーズに応えて男女共学四年制の東洋学園大学を1992年、設立。現在は、グローバル・コミュニケーション学部、現代経営学部、人間科学部の3学部体制となって、本郷キャンパスを学びのコミュニティにしている。本郷には都市のダイナミズムがある。建学の精神を現在の学びに落とし込みながらカリキュラム全体を大きく改変して、より良い人間形成、人間教育と専門教育の融合を図っていくうちに、大学は、学生、教員、職員が一体となって学び合うコミュニティに変貌していく。
例えば学部横断プログラムがある。我々はフェニックス・チャレンジ・プログラムと呼んでいる。就職を見据えて、他学部の科目を学ぶ環境を整えようとしている。我々はグローバル化への挑戦も始めている。これは、ほとんどの授業を英語で受ける。一年間、英語圏に留学し、4年で卒業できるプログラムである。ICPと呼んでいる。
情報化社会はますます進展し、情報は一瞬にして全世界を駆け巡る。教育界もICT化を活用し、変化していくことになる。知識、情報は、授業前にインターネットで簡単に入手でき、学生たちは教室では自ら出題し、解を出していく。グループ・ワークですっかり賑やかな教室が生まれる。その喧騒の中で、教員は、彼らの自発性を育てながら、その変容の瞬間瞬間を見逃さず、寄り添っていかなければならない。そして何より大事なことは、フェイス・トゥ・フェイスでしか得られない教育の醍醐味を彼らに経験させる。そして、何気なく発信する情報が、ときに、だれかを傷つけているかもしれないという緊張感を学生たちに思い出させることが肝要だ。こんな時代だからこそ、深い人間教育、何をしなければならないか、何をしてはならないかを倫理観として教えていかなければならないのである。