特集 AI人材、AI活用人材の育成を考える
中妻 照雄(慶應義塾大学経済学部附属経済研究所 FinTEKセンター長)
フィンテック(fintech)は、金融(finance)と技術(technology)を合わせた造語です。学問としてフィンテックは、金融サービスに最新のICT(情報通信技術)を融合させて新しい価値を創造することを目指す学際的な研究領域です。フィンテックと一言にいっても、内包される技術と応用範囲は多岐にわたります。例えば、ビットコインに代表される仮想通貨、スマートフォンを活用してのキャッシュレス決済、不特定多数から資金調達を行う手段としてのクラウド・ファンディング、機械学習・AI(人工知能)を活用したビッグデータ解析などの言葉をニュースなどで見聞きされた方も多いと思います。
これらの技術が普及すると、銀行や証券会社などの金融機関が伝統的に行ってきた業務を代替できるようになるとともに、そこで働く人々の職場が消滅してしまうかもしれません。そのためフィンテックを絶好のビジネスの機会とみなすICT関連のスタートアップ企業のみならず、この動きを脅威とみなす既存の金融機関、そしてフィンテックの普及が経済と社会に与える影響を憂慮する各国の監督官庁や中央銀行などをも巻き込んで、フィンテック研究を推進する動きが国内外で加速しています。
本稿では、このようなフィンテックをめぐる現在の状況を踏まえた上で,まずフィンテックの勃興が産業と雇用に与える影響について概観します。続いて「フィンテック時代」において大学が直面する問題を大学教育の出口としての就職状況の変化と企業が大学、特に文系学部での教育に求める質の変容の観点から説明し、大学が取るべき改革の方向性を提案します。最後に本学経済学部でのフィンテック教育の試みについて紹介し、その経験に基づく今後の課題について述べて結論とします。
この限られたスペースでフィンテックの全容を詳らかに説明することはできません。そこで、本節ではフィンテックが雇用に与える影響について概観します。鍵となる言葉は、フィンテックがもたらす業務・サービスの「自動化」と「分散化」です。
まずは、フィンテックにおける自動化の代表的事例であるRPAについて説明します。RPAとはrobotic process automationの略で、従来は人が行っていた定型作業を自動化する仕組みの総称です。製造業における生産工程での定型作業の自動化は第1次産業革命の時代からあります。一方、書類作成や顧客対応における定型作業の自動化は、ごく最近まであまり進んでいませんでした。しかし、AIによるテキスト解析や音声解析の発達を受けて、経理などでの書類作成やカスタマーセンターでの顧客対応をAIで代行・支援できるようになりつつあります。もっと複雑な業務の自動化も進んでいます。例えば、金融機関における融資の判断は伝統的に人間が行ってきました。しかも、与信の判断材料となる情報は、年齢、職業、所得や担保物件の価値などの限られたものでした。しかし、人々の日々の行動(SNSでの交友関係、ポイントカードなどで記録された購買履歴や位置情報、フィットネス・アプリで収集された運動時間など)に関する膨大な情報が収集・蓄積されるようになったため、これらのビッグデータをAIによって解析することで信用度を推測できるようになりました。そのため融資判断をAIに委ねる金融機関が出始めています。このように単純作業から高度な判断を要する業務まで「自動化」で置き換わっていくと、事務部門で必要な人員の数が劇的に減少してしまうかもしれません。
もう一つのキーワード「分散化」の影響も見てみましょう。伝統的な金融機関の決済管理システムは中央集権的で閉鎖的な構造をしています。これは安全性の観点からは望ましいのですが、新たなサービスを追加するには不便な構造となっています。そこで、オープンなインターネット経由で行う新しい決済や与信のサービスの開発・提供と異業種の参入を促す目的で、外部の業者が預金者の口座情報などを取得できる仕組み(オープンAPI)を開放することが進められています。この動きが加速していくと、様々な金融サービスがスマートフォンのアプリ上で完結するようになることが期待されます。これにキャッシュレス決済の普及が合わさると、人々が金融機関の店舗やATMに足を運ぶ必要はほぼなくなるでしょう。現在、金融機関は店舗・ATM網を維持するために多くのコストを負担しています。顧客が利用しない設備を維持する意味はないので、将来的には店舗・ATMはなくなり、それに伴ってそこで働いている人もいらなくなります。したがって、「分散化」の流れもまた人員削減に繋がることになります。
あまり悲観的なことばかりを言うのは気が引けますが、フィンテックの進展が既存の金融業務に従事している人々の雇用を奪うことになるのは否定できない側面です。そして、日銀のマイナス金利政策や人口減に伴う資金需要の減少などフィンテックとは直接関係しない要因の影響もありますが、昨年来、日本の主要金融機関は人員削減、新規採用の抑制、店舗の統廃合などを次々と打ち出しています。
以上のようにフィンテックの普及によって失われる可能性が高い雇用は、ホワイトカラーと呼ばれる事務系の職種に集中しています。そして、このホワイトカラーの職場に多くの学生を輩出してきたのが、いわゆる文系の学部です。ここに筆者が所属する本学経済学部を2018年3月に卒業した学生の主な就職先の統計があります(表1)。
表1 本学経済学部卒業生の主な就職先
(2018年3月卒業)経済学部 大学全体 金融・保険業 32.7% 21.3% サービス業 20.7% 17.8% 情報通信業 13.4% 16.2% 製造業 11.5% 18.1% 卸売・小売業 8.0% 9.1% ※慶應義塾大学ガイドブック2019より作成
経済学部の定員は1学年1,200名ですから、単純計算で約400名の学生が金融・保険業に就職していることになります。これだけでも十分大きい数字なのですが、RPAによる事務職の消失は金融業に限りませんから影響はもっと大きくなるでしょう。今は人手不足で学生達も売り手市場を謳歌しているように見えますが、そう長くは続かないと思います。
さらに、フィンテックは雇用の量だけでなく、職場で要求される知識とスキルの質も変えつつあります。日本は学歴社会であると言われて久しいですが、実のところ企業は大学教育に価値を見出しているのでなく、優秀な若者を選抜する篩(ふるい)として大学(特に入試)を利用しているにすぎないのではないでしょうか。つまり、企業は、難関校に入学できた学生は頭がいいので要領よく仕事を覚えてくれる、体育会系であれば肉体と精神が鍛えられていて頼もしい、といった期待をもっているため、大学で学んだ内容ではなく学歴フィルターで難関校出身者を選んで採用するわけです。これは経済学では「シグナリング」と呼ばれる現象です。この慣習の前提にあるのは、企業は大学を卒業した学生に「白紙の状態」で入社してもらい、長い時間をかけてOJT(on the job training)で業務に必要な知識とスキルを叩き込んで企業戦士に鍛え上げればよいという発想でしょう。しかし、AIが文字通り24時間戦える企業戦士となり人間に取って代わる時代において、OJTを前提とした人事が行き詰まることは目に見えています。さらに、OJTは特定の企業内でしか通用しないノウハウの習得において威力を発揮しますが、企業の枠を超えて行われるオープン・イノベーションとは相容れない性格のものです。
さて、このような事態の変化に従来型の文系教育を受けた学生は対応できるのでしょうか。今までは大学の4年間は青春を謳歌し、就活を頑張って内定をもらい、仕事のことは入社後に考えればよかったのです。しかし、AIの普及と日本型OJTの終焉は、エントリー・レベルの職種が消滅して本当の意味での即戦力の人材のみが雇用される時代の始まりを意味します。この流れに対応できなければ、教育機関としての大学の存在意義が疑われかねません。
それでは、これから社会に出る学生達に大学はどのような教育を行えばよいのでしょうか。筆者は、多様な学問のショーケースとしての教育ではなく、学生の実社会での活躍を想定して体系化された知識の伝授とスキル向上の機会の提供が大学の使命ではないかと考えます。しかし、筆者のように大学一筋で生きてきた人間に実務の話をしろと言っても無理がありますので、カリキュラムの編成のためには企業の協力が必要不可欠です。企業が積極的に大学教育に関与できる仕組みを用意し、学生に企業の実態を知ってもらう機会を設けることが大事です。これは、学生にとって実務で必要とされる知識とスキルを知る機会であるとともに大学での学修の動機付けにもなることが期待されます。そして、大学の教員も専門とする学問の特性に応じて実務に即した教育を行う。つまり、学生・大学・企業が「三位一体」となった教育を行い、学生が卒業して出社した第1日目から仕事を始められるようにするのです。このアイディアは現段階では理想論にすぎませんが、これから大学が生き残っていくためには必要不可欠な改革であると筆者は確信しています。
以上のような危機意識に基づき、学生にフィンテックとそのインパクトを知らしめ、フィンテック時代に備えてもらうため、本学経済学部ではCentre for Finance, Technology and Economics at Keio(FinTEK, http://fintek.keio.ac.jp/)を2017年6月に設立し、その全面的支援の下で2018年4月よりフィンテック教育プログラムとして
を設置しました。
まず『フィンテックとソーシャル・インフラストラクチュアa・b』では、フィンテックの最前線で働く実務家を講師として招き、フィンテック・ビジネスの国内外での最新の実例を紹介しつつ、フィンテックのサービスを提供する際に企業が直面する諸問題とその解決方法の概説を行っています。
一方、『フィンテックの理論と実践a』では、研究者や実務家を含む外部の講師を招いて、AIやブロックチェーンなどのフィンテックを支えている基幹技術、それがもたらす恩恵と問題点などについて講演していただきます。さらに、経済学の視点から、フィンテックが金融機関、資本市場、マクロ金融政策などに与える影響についても学びます。
最後の『フィンテックの理論と実践b』は非常にユニークな科目です。まず、①インフラストラクチュア、②資金決済、③顧客サービス、④プラットフォームなど、4つのフィンテックの主要領域の中から1つを選び、フィンテック関連のプロダクトの提案のためのピッチビデオを作成し、履修者全員で参加したいプロジェクトに対して投票を行います。次に評価の高かったいくつかのプロジェクトを実現するため、4名程度でチームを編成し、協力企業から派遣されたメンターの指導の下でプロダクトの開発を行います。これと並行して毎週の授業では、フィンテック企業を立ち上げるためのノウハウとデータサイエンスの基礎を学修します。そして最終報告会では、学生が開発したプロダクトのピッチを行い、優秀チームの選考と表彰を行って半期の授業を締め括ります。この授業は、学生による起業の推進を目的としてデザインされています。なぜなら日本では諸外国と比べて学生の起業が少なく、これがフィンテックに限らずテクノロジー部門全体での日本の遅れの一因と考えられるからです。この科目だけを2017年度に試験的に先行開講したのですが、初年度にも関わらず学生達がユニークな提案を次々と出してくれて協力企業や審査員にも大変好評でした。
本学のフィンテック教育プログラムはようやく緒に就いたばかりですが、履修者300名を超える科目もあり、幸先の良いスタートが切れたと思います。現状は3・4年生向けの教育が中心ですが、今後は1・2年生向けにプログラミングやデータサイエンスの教育を整備するとともに、大学内の理工系学部との連携、さらには英語でのフィンテック教育の充実を図って、海外、特にアジアからの人材の取り込みを進める方針です。
このプログラムに触発された学生が始めたスタートアップの中からユニコーン企業が誕生する日を担当者一同とても楽しみにしています。