特集 授業の価値を最大化する教育のICT革新
野村 典文(伊藤忠テクノソリューションズ株式会社 技監(兼)広域・社会インフラ事業グループ エグゼクティブ・プロデューサ)
デジタル社会について、人によって捉え方は異なるものの、大まかに言えば、リアルな「もの」や「サービス」を「デジタル化(非物質化)」することで新しい事業価値が生み出され、文化、産業、人間のライフスタイルを一変させていく社会と定義することができます。
その出現の原動力は近年のテクノロジーです。センサーやデバイスの技術進化はリアルな社会の状態をデジタル化させ、高速通信、メモリやディスクの大容量化によって、それらのデジタル情報をビッグデータとして収集することが可能となりました。さらに、コンピュータ性能の向上により膨大なビッグデータの解析が可能となり、Deep LearningなどのAI技術を発展してきました。このように、データを活用した産業革命が進行しつつあります。
日本政府は、これから日本が向かうべき社会を超スマート社会(Society5.0)という言葉で表現し、「経済的発展と社会課題の解決を両立し、人々が快適で活力に満ちた質の高い生活を送ることができる人間中心の社会」と定義しています。さらに、Society5.0を目指すことで、世界全体が目指す持続的開発目標(SDGs)にも貢献できるというシナリオです。その実現手段は、様々なデジタルデータ(社会環境、インフラの状況を知るセンシングデータ、人間の生活、行動、健康を知るライフログデータ)をAIによって知識化し、ロボット(自動運転車も含む)で自動化・高度化をするということです。よって、AIを扱える人材が多く必要になり、そのための教育を強化しなければならないと言われています[1]。
文部科学省は、平成29年3月31日に幼小中の学習指導要領等の改訂告示を公示し、新たな学習指導要領の考え方を示しました。さらに、平成30年7月に高等学校に関しても新学習指導要領を発表しています。その中心になるのが、「主体的な学び」、「対話的学び」、「深い学び」とされるアクティブ・ラーニングの視点と言われています[2]。これは大学教育においても同様であり、近年の大学教育でもPBL(Problem-based Learning)(問題解決)型教育の取組みが様々な場所で実施されています[3]。
この新たな教育によって、主体性、コミュニケーション力、洞察力を持った人間を多く育成することが期待できます。
しかし、この教育には課題もあります。それは教育をする際に前提となる社会課題や問題を現実に即して設定できるかということです。実際の社会では、ビジネスドメインによって様々な異なる問題が発生します。その実際の問題を教育界で、どのように取入れるかということです。今までの社会でしたら、過去の事例を調査し、その事例から課題や問題を取上げることができたかもしれません。しかし、デジタルの社会には過去の事例が存在しません。新たに発生した問題は、「いったい何が問題なのか。その要因は何か。」というところから探求が始まります。その探求には、基本的なビジネスドメインの知識が必要になります。現在取組んでいるアクティブ・ラーニングやPBLで提起する課題や問題が現実的か、その課題や問題を解決することが実際に社会で役に立つのかということをもう一度考えなければなりません。
前述したように、デジタル社会ではデータを基軸としたサイエンス(データサイエンス)やAIが重要な要素になります。研究者や技術開発者だけではなく、一般の社会人に、ある程度のデータを扱う能力(データリテラシー)が求められることになります。そのため、約3年前から大学でのデータサイエンス教育が重要とされ、滋賀大学をはじめとして、いくつかの大学にデータサイエンスを扱う部門が新設され始めました。その中でビジネス界では、目指す人材を図1のように定義しています[4]。
図1 デジタル社会に求められる人材
① ビジネスデザイナ
ビジネスを企画し推進していく人材。ビジネスデザイン力に加えて顧客体験のデザイン力が求められるため、日頃から、観察力や洞察力を養う訓練が必要になります。さらに、エコシステムを作り上げるための社内外の有識者とのコラボレーション力やファシリテーション力も身に着ける必要があります。
② エンジニア
デジタル情報を活用した仕組みやシステム構造(アーキテクチャ)を設計し、実装していく人材。技術力に加えて、要求を把握するための顧客体験の理解力や人間中心のデザイン力が必要となります。
③ データサイエンティスト
デジタルデータから社会課題の原因やビジネス高度化の要素などを導き出すために、データ分析力に加えてビジネス分野で物事を捉える力が必要となります。
ここで問題となるのは、ビジネスデザイナとデータサイエンティストの教育です。前述したように、アクティブ・ラーニングやPBLで基礎的な教育はできると思われます。しかし、実際に起きている社会課題やビジネスの課題を扱える実践的な教育は難しいのではないかと考えます。さらに、データサイエンティストの教育でも、実社会で使われているデータが扱えないと実践的な教育が困難です。そこで、産学連携による新たな教育の仕組みが必要と思われます。
今までデザインスクールなどのデザイン専門の教育機関を除いて、顧客体験を洞察する能力やイノベーションを起こす能力を意識的に教育する場所は極めて少なかったと思われます。大学は専門知識を学ぶ画一的な教育が中心で、企業はOJTと称した先輩社員によるビジネス経験教育が中心で、思考訓練を培う場もプログラムも極めて少なかったと言えます。
最近では、企業内教育においてデザイン思考や創造性向上のためのワークショップなどのイノベーション教育が多く実施されるようになってきました。また、前述したように大学でもPBLと言われる問題解決型の教育が実施されています。しかし、体系だった教育プログラムによって実施されているわけではなく、部分的かつ試行的に実施されているのが実情です。
イノベーティブな人材を育成するには、「思考訓練を行う場」と「体系だったプログラム」が必要です。しかし、体系化された理論を研究できる大学と実際にイノベーションを起こそうとしている企業が協力しないと実現できません。特にイノベーティブな思考を活性化させるためには、人間の発想を広げることができる空間(場)と考えるための道具(考具)が重要になります。
図2に「思考訓練を行う場」と「プログラム(デザイン思考)」のイメージを示します。今までのような「集合教育型の教室」や「情報共有型の会議室」ではなく、お互いの脳を刺激し、五感をフルに活用しながら議論できる空間です。空間全体がキャンバスのように使え、集中と拡散を意識的に作り出すための工夫(照明や音楽などを取入れる)も必要になります。図2の例では、デザイン思考の4つの思考プロセスを取入れ、それに合わせて壁4面がキャンバスになっています。この空間で議論したことがその場で構想図になっていく仕組みです。部屋全体が思考ツールになっているのです。
図2 思考訓練を行う場
近年、このような場はイノベーションラボやフューチャーセンターと称され、国内外の企業や自治体で設けられています。また、その場を設計する際の指針・指標等も研究されています[5]。
さらに、イノベーションラボは、遠隔地とネットワークで接続することで仮想空間を作ることが実現されています。議論した内容や成果物はクラウドで共有するため、1つの空間で議論している状況を作り出せます。まさに、仮想的なキャンパス空間です。図3にそのイメージ図を示します。
図3 産学連携イノベーションラボ
実際にシリコンバレーと日本国内をつなげて定期的に活用している企業もあります。この仮想空間は、産学連携でも有効に機能します。企業や自治体のイノベーションラボと大学のイノベーションラボをつなげることで、企業の持つ実際のビジネス課題や自治体の社会課題をテーマにPBL教育を実施することが可能となります。社会人と学生が1つの空間を共有することで、多様性を持った新たな大学教育が実現できるのです。
図4に、この仕組みを使った実証実験の事例を示します。離れたイノベーションラボをつないだ仮想空間です。さらに、議論を行うツールに試作品であるテーブル型の電子模造紙を使い、議論で使う電子的な模造紙、付箋紙もリアルタイムに共有されます。この実験では、離れた場所が1つの空間に集約できるという成果以外に、もう1つ大きな成果が確認できました。それは、成果物がクラウド上で共有して作られるため、後から振り返ることができ、さらに議論の過程(誰がどのような付箋紙を出し、誰がどのようにリードしたかという点)も評価することができるということです。これは、教育の評価をする上で大変重要な点だと考えます。表1に電子的なツール(模造紙、付箋紙)を活用して評価する一例を示します。このような評価をすることはアナログでは困難です。デジタルだからこそできる教育のDX(Digital Transformation)そのものです。
図4 仮想的な創造空間の実証実験
表1 デジタルツールを使用した教育評価
次に、教育プログラムについて記載します。イノベーションが盛んに議論されると同時に、その方法論として話題になったのがデザイン思考でした。デザイン思考はイノベーションを生み出す万能ツールではなく、顧客体験から得られる課題発見と、課題解決のデザインを素早く検証する思考法の一つです[6]。これはアクティブ・ラーニングやPBLに通じる考え方にもなります。しかし、具体的かつ詳細なプロセスやツールが示されているわけではなく、コンサルティング企業などによって様々な方法が開発されています。大学でも社会科学系の研究者によって継続研究されています。その中で、民間企業の事業開発やサービス開発で有効なことがわかってきました。
しかし、教育プログラムとしてデザイン思考を組み込むのは、それほど簡単なことではありません。その理由は、課題解決の検証(プロトタイプ〜テスト)を実際に行うことが教育現場だけでは難しいからです。これも産学連携による教育が望ましいと考える理由の一つです。
一方、最近はアート思考[7]という考え方が提唱されています。デザイン思考と異なるのは、世の中の課題解決を指向する方法論ではなく、様々な思考の組み合わせで新たな価値を生み出すというアーティストの発想の仕方にヒントを得た思考法になります。したがって、従来の方法論にありがちなプロセスを定義したものがありません。参考になるのは、アーティストやクリエーターたちの思考特性にあります。
つまり思考訓練のプログラムとして検討するなら、アーティストやクリエーターたちの普段の行動を参考に、様々な発想法で物事を整理していくプログラムになります。
以下に、その一例を示します。
さらに、図5に「想像力」、「洞察力」、「表現力」を訓練するための、要素を関連付けしたものを示します。この中身をプログラム化し、仮想キャンパスを利用して社会人と学生との多様な議論が進めば、新たなビジネスデザイナの教育が生まれてくると考えています。
図5 アイデア発想の訓練
日本はデータドリブンの考え方が薄く、データを中心に経営判断を行うことに慣れていません。どちらかというと経験とナレッジを伝承することによって経営が引き継がれてきました。よって、企業に入ってから科学や工学を専門に扱う研究者以外は、数学や統計学を学ぶ機会がほとんどなかったと言えます。
また、ソフトウエアエンジニアもデータベースを扱うことができるエンジニアは多数存在しますが、データそのものを高度な数学や統計学で分析するエンジニアは極めて少ないです。つまり、日本の社会には数理的な思考やデータ分析・活用を持つデータサイエンティストが極めて少ないと言えます。
前述したように、大学でもデータサイエンティスト育成が喫緊の課題になっています。その中で、最も重要な課題は、大学では実際のビジネス界で使うビッグデータを入手しにくいという点です。これでは教育用の小規模データでの学習しかできず、社会に出てから即戦力になるデータサイエンティストは育成できません。
一方、企業では、数理的なモデルや、数学、統計学を教育できる人材がほとんどいません。ビッグデータは持っているが分析ができないという課題に直面しています。
このようなお互いの課題を解決するのが産学連携の肝になります。そのために、企業が、自社のビジネスで活用する実務データを準備(匿名加工)し、セキュアなクラウド環境(図6)を通して大学へ提供できる教育データクラウドを準備する必要があります。
図6 教育データクラウド
この教育データクラウドを使うことで、大学側では企業のビジネスに役立つ研究が促進され、即戦力の人材を育てることができるようになります。また、企業側も大学院大学を積極的に活用することで数学、統計学がわかる人材を教育することができます。
今後のデジタル社会を支える人材のイメージ(特にビジネスデザイナ、データサイエンティスト)と、その人材を育成するための「思考訓練を行う場(仮想的な産学連携イノベーションラボ)」と「教育プログラム」について提案してきました。しかし、実際にその環境を整備していくためには、元となる資金が必要になります。
今まで、日本の大学は運営資金のほとんどを国からの研究費や補助金で賄ってきました。そのため、企業は将来の人材育成のために大学へ投資するという考えを持たなかったのです。つまり、ビジネス社会と教育界が大きく分断されていたと言えるでしょう。しかし、デジタル社会では、企業と大学が協力しない限り必要な人材を育成することができません。今まで、企業は人材育成を自社で実施してきました。そのための資金は教育費として毎年、経費計上してきました。ところが、大学と共同で人材を創るという考えになれば、人材への投資として大学へ資金を投入することが考えられます。図7に、その枠組みを示します。
図7 大学への投資ファンド
企業は、産学連携イノベーションラボなどの大学と共通の教育の場を得ることによって、求める高度な専門人材を明確に見極めることができるようになります。学生も自分の希望する企業イメージと将来への展望をつかむことができます。ここで企業と学生の要望が一致すれば、早期に即戦力のビジネス教育が可能になるわけです。そのため企業は、人材への投資を決断します。これが大学への投資ファンドです。この資金をもとに、大学は高度な研究や新たな教育に積極的に取組むことが可能となります。また、産学連携のビジネスデザイナ教育で新たなアイデアが生まれた場合には、企業側の資金によってプロトタイプ開発やテストが可能となります。その結果、ビジネス実現性が高いものは大学発ベンチャーとして起業し、企業がベンチャーへの資金融資を可能となる流れが生まれます。
この枠組みは、シリコンバレーでは30年前に実現しているものです。シリコンバレーのベンチャースピリットは、産学連携の絆によって生まれたものです。日本でSociety5.0を成功させるためには、この枠組みが必要になります。
今まで述べてきた産学連携の教育の仕組みを統合して俯瞰すると、最終的に以下のように整理できます。
以上の3つのことを実現させるために、最終的に図8に示す「エデュケーション・プラットフォーム」を準備することを提案します。このような教育用のプラットフォームは、戦後、抜本的に変わらず行われてきた日本の教育を、大きく変える可能性があります。学びは、大学が終わったら終了ではありません。人間にとって一生続くものです。さらに、学ぶことは人間の生きる希望や喜びにも通じます。人生100年と言われる中で年齢に関係なく、様々な人がいっしょに学ぶ環境があれば、多様な人の刺激を受けながら子供たちも大きく成長していくでしょう。
また、ミドル・シニア世代の学びも重要となります。いくら若い世代が育っても経営幹部がデータサイエンス分野を理解できないと的確な意思決定ができません。今後の超高齢化社会では、シニア層が学べる環境も重要になってきます。その際に、このエデュケーション・プラットフォームが大きく役に立つものと考えています。
図8 エデュケーション・プラットフォーム
コロナ禍に影響を受けた教育界は、リモート授業を強いられました。しかし、この機会が、リモート授業の良さを検証できたと言えます。また、通信環境はさらに整備されていくことでしょう。このチャンスに本提案を活かした産学連携の仮想キャンパスが生まれることを期待します。
参考文献および関連URL | |
[1] | 文部科学省, Society 5.0 に向けた人材育成, https://www.mext.go.jp/component/a_menu/other/detail/__icsFiles/afieldfile/2018/06/06/1405844_002.pdf |
[2] | 文部科学省, 新しい学習指導要領の考え方,https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/__icsFiles/afieldfile/2017/09/28/1396716_1.pdf |
[3] | 国立大学法人 上越教育大学, 総合的な教師力向上のための調査研究事業実施報告書,平成28年度文部科学省委託事業,https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2017/10/03/1395661_01.pdf |
[4] | 一般社団法人データサイエンス協会, データ社会に求められる新しい才能とスキル,第2回シンポジウム,https://www.datascientist.or.jp/common/docs/skillcheck.pdf |
[5] | 一般社団法人Future Center Alliance Japan, イノベーションの場のインパクト,EMICレポート,https://futurecenteralliance-japan.org/recent-activity/emic |
[6] | ティム・ブラウン,デザイン思考が世界を変える,早川書房,2014年5月15日発行 |
[7] | 秋元雄史,Art Thinking,プレジデント社,2019年10月31日発行 |