特集 学修者本位の教育の実現、学びの質の向上を目指した大学教育のDX構想(その1)
寺澤 孝文(岡山大学 学術研究院教育学域教授)
近年教育現場では、矢継ぎ早に改革が求められ、何か新しいことに取り組まなければならないという暗黙のプレッシャーのもと、十分時間がない中で様々な取組みが試行されているように見えます。
そもそも教育の成果は、新たな事業やカリキュラムの導入、組織改編を行うこと自体ではなく、それにより<学生が望ましい方向で変容したかどうか>で本来評価されるべきものです。新たな取組みの実施のみでは成果を示すことにはなりません。また、人の行動変容をデータで示すことは想像以上に困難なことです。エビデンスに基づく教育(Evidence Based Education)は一朝一夕にできることではありません。
近年ICTの進歩と情報端末の普及により、様々な大量の行動データ(ビッグデータ)が主に民間企業に集約される状況が生まれています。しかし、人間の行動データに限っては、単純に集められたビッグデータから新しく有益な情報を見出すことはほぼ不可能と言える、原理的問題があります。
以下、その問題に説明を加え、それを解決し本学で明確な成果が得られ始めた、新たなeラーニングを紹介します。
小中学校に一人一台の情報端末が導入され本格的な運用が始まっていますが、既に現場からは、ICTを活用しても今まで以上の成果が得られないという声が出ています。それは大学においても同様で、これまで多くの大学で様々なeラーニングが導入されていますが、本学でも従来のeラーニングは学生の利用率は低く、学生の成績に示される明確な成果は報告されていませんでした。
一方、本学で2019年度に本格導入されたマイクロステップ・スタディ(MicStudy)は、自ら学ぶ意欲を長期にわたり確実に(有意に)上昇させることや英語の語彙力を向上させることを「保証」できる段階に入っています。直近では、eラーニングの学習量と総合的英語力(GTEC)の成績の間に有意な関係性が明確に示されました(詳細はプレスリリース予定)。また、2019年度には民間企業で評価が高い日本e-Learningアワードで文部科学大臣賞を受賞し、社会実装が拡大し、2021年度には全国の1万人を超える学習者に年間を通じてeラーニングとフィードバックが提供されています。このように、教育分野において明確な成果をデータで示すことは、ICTや端末の活用だけで実現できるものではありません。学生の意欲を向上させるためには人間の意欲(学術的には動機づけ)に関する知識や理論が必要であり、効率的な学習を実現するためには、人間の記憶メカニズムに関する最新の知識と理論の理解が必要です。逆に、ICTに加えて人間に関する科学的理解と理論があれば明確な成果を学習者に提供できるといえます。
eラーニングの最大の困難は、継続できない点にあります。従来のeラーニングは、コンテンツを分かりやすく、面白く、綺麗に呈示することで学習者の意欲を高めることに力点が置かれています。それゆえ導入当初は学習者は意欲的に学習に取り組むことができます。しかし、人間は与えられる変化にはすぐに慣れてしまい、意欲は比較的すぐに落ち、二度と上りません。ゲーム業界でもゲームを3か月以上継続してもらうことに大きな壁があるといわれることからすれば当然でしょう。
それに対してもう一つ人の行動を引き起こす情報が自分自身に関する変化情報です。学術的な議論は省きますが、「自分が変化しているという実感を生み出す情報を求めて人は行動を起こす」と考えるとほとんどの行動を説明できます。分かりやすく言えば、勉強することで、自分の成績が上がっていく情報を継続して提供できれば、学生は勉強を継続すると考えられます。
問題は、日々変化する学習成果を学生に示すことができるかにありますが、その足掛かりが20年以上前の潜在記憶研究から出てきました。
MicStudyは、科学研究費補助金の基盤研究Aで2度採択を受けるなどして実用化され、2018年度の内閣府SIP(戦略的イノベーション創造プログラム)への採択により社会実装の道が開かれましたが、その出発点は、実験心理学の記憶研究にあります。いわゆる知識は長期記憶に対応し、長期記憶は、顕在記憶と潜在記憶の2種類に分類されます。図1のエビングハウスの忘却曲線を例にとれば、すぐに消えてしまう一夜漬けの学習効果が顕在記憶であり、一般的な記憶はこちらに該当します。他方、1か月経っても残っている、実力に対応する記憶が潜在記憶であり、言語能力もその基盤は潜在記憶とされます。ここで注意すべき点は、両記憶が全く異なる特徴を持っていることです。例えば、顕在記憶はすぐに消えますが、潜在記憶は消えずに数か月単位で保持されます。潜在記憶が想像以上に長期に持続することは、数多くの研究で証明されており[1][2]、そこでは到底信じられない驚異的な人間の記憶能力が示されています。また、覚えようとして勉強するか、見流すように勉強するかも顕在記憶には確実に影響しますが、潜在記憶ではほとんど影響しません。その他、加齢に伴い顕在記憶能力は低下しますが、潜在記憶では高齢者と大学生で記憶能力に大きな差は出てこないなど興味深い事実の報告が多数あります。
図1 忘却曲線にみる2種類の長期記憶
(Ebbinghaus,1885を改変)
この2種類の記憶は厳密な実験操作をしなければ区別することはできないため、一般的なテストで正確な実力を測定することはできません。英単語を勉強する中で、実力レベルで身についたかどうか分からず、不安を拭えない原因はここにあります。
また、記憶はすぐ消えるから何度も反復学習をして、ある程度覚えたら次のページに学習を進める学習法が推奨されることがありますが、この学習法は一夜漬けの勉強には有効かもしれませんが、実力テストや語学の試験には非常に非効率であることも明らかになっています[1]。
すぐ消える一夜漬けの学習効果と実力の変化を分離するためには、学習とテストのインターバルを学習コンテンツごとに制御する必要があります。実は、この「いつ」学習とテストを行うのかという条件の効果は想像を超える大きな効果を持っており、それを制御せずに収集されたビッグデータには、その効果が大きなゴミとなってまとわりつくことになり、そこから有意義な情報は原理的に抽出できません。
例えば、ポイントカードを使って買い物をすると、誰が、いつ、何を購入したのかという購買行動データが集約されます。大量の購買行動のビッグデータは10年以上前から集約されていますが、そこから従来以上の行動予測は導けない理由があります。仮に明日、ある人がビールを買う確率を推定する程度の予測をしたい場合を考えてみます。予測には、明日の気温や買う人の年収、性別、そして1か月あたりのビール購入量等を変数とするモデルを立て予測するのが一般的でしょう。しかし、実際のところ、今日その人がビールを1ケース購入すれば明日買う確率はかなり小さくなります。逆に、1か月前にビールを購入し、それ以降購入していなければ明日購入する確率はかなり高くなります。つまり、類似したイベントをいつ経験していたのかにより、人の行動は大きく変わるわけです。そして「いつ」という条件は無数想定され、その数は人類の数を超えるものになります。それゆえ、大量の行動データをAIなどにかけても一定の傾向を抽出することは原理的に困難であると考えられます。
学習イベントも同様で、明日の試験で、ある学習者がある問題に正答する確率を推定する場合、今日その問題を学習していれば成績は高くなりますが、1か月前に勉強しただけであれば成績は低くなります。ところが、その1か月前のさらに1年前から少しずつ学習をしていた場合であれば、試験までの1か月間勉強していなくても成績は高くなると考えられます。
つまり、明日の試験で特定の問題に正答する確率を推定するためには、年単位でその問題に対する学習履歴を把握し、その条件ごとに成績の上昇パターンを推定しておく必要があります。
本学に導入されたMicStudyは、まさにTOEICで必要とされる2千語以上の英単語を網羅し、その一つ一つについて、いつ、どのように学習やテストを行うのかという詳細なスケジュールを年単位で生成し、それに対応して反応データを集約することで、時系列条件がそろった大量の学習データ(高精度教育ビッグデータ)を生み出すことを可能にしています。
図2 3人の高校生の3週間の英単語学習効果
時間条件の影響を排除するためには、実験心理学の複雑な実験計画法をシステムに組み入れる必要がありますが、この点をクリアすることにより図2のような成績の上昇が個別に描き出せるようになりました。図は3人の高校生が、1日10分足らずの英単語学習を3週間継続して得られたデータから成績の上昇を可視化したものです。このような成績の変動が個別にフィードバックされればつまらないeラーニングでも学生は学習を継続するようになります。
語学力の向上には、学習を継続できるしくみが必要ですが、MicStudyは、上記のようなフィードバックを個別に提供することで学生が学習を継続できる状況を生み出せたわけです。
さらにもう一つ、MicStudyの学習量と総合的英語力(GTECの成績:リスニング+リーディング)の間に有意な関係性が検出できた理由と考えられるのが、個別最適化処理の実装です。
MicStudyはすべての英単語を網羅し、それぞれについて学習とテストのタイミングをそろえることができます。それにより一定のペースで各問題に対する成績を定点観測することが可能になっています。英単語や漢字の成績は一定のペースで学習された場合直線的に上昇していくことが、10年以上の研究で明らかになっています。それゆえ問題ごとに収集される成績の変動データから、実力レベルの到達度を正確に推定することが世界で初めて可能になりました。その推定値が最高点を超えたと判定された英単語が学習リストから消えていく、個別最適化の機能が本格的に稼働し始めています。学習者には、個別最適化処理の結果、解析ごとに学習すべき残りの英単語数が漸減して提示され、意欲向上に寄与しています。
近年、個別最適化された学びが重視されていますが、そもそも正確に学習者の実力レベルの成績が推定できなければ、誤ったレコメンデーションがなされる状況が生まれ、学習者が取返しのつかない状況に陥ってしまう可能性は否めません。少なくとも、従来のような1度のテストの成績から実力を正確に推定することは不可能です。
本学の実践データサイエンスセンターには、膨大な縦断的学習データだけでなく、心理尺度データが集約されており、それは宝の山となっています。本学で見いだされたGTECの得点とMicStudyの学習量の有意な関係性が、MicStudyを導入した高校の英検の得点にも見いだされています。学習者の負荷も少なく(1日10分程度)、低コストで語学力を上げられる語学教育の基本ツールとして、他大学や専門教育への導入を推進していく予定です。
ICTの活用や、AI処理が導入されるだけでは、教育の成果を厳密に評価することは困難と言わざるを得ません。人間の欲求や学習等に関する、データ志向の教育心理学の知識やデータ収集のスキル、そして真理を追究する誠実な科学者の視点がなければ人間の行動変容を可視化することはできないと言えます。
他方、ICTや情報端末を使うことなく、このような知識習得の支援を実現することができないことは、火を見るよりも明らかです。知識習得については、個人レベルの学習支援をコンピュータと高精度教育ビッグデータで完全に支援できる段階に入ったと言えます。一人でもできる知識習得はコンピュータに任せ、短時間で効率的に習得を促すことにより空いた時間を、創造的思考力の育成や体験的学習、主体的学びなど、真に高次な人間の能力の育成に振り向けることが何より重要になってくると考えています。そのような教育の実現を我々は目指しています。
参考文献 | |
[1] | 寺澤孝文(編著),2021 高精度教育ビッグデータで変わる記憶と教育の常識―マイクロステップ・スケジューリングによる知識習得の効率化― 風間書房 |
[2] | 寺澤孝文,2016 潜在記憶と学習の実践的研究 太田信夫・佐久間康之(監修)「英語教育学と認知心理学のクロスポイント −小学校から大学までの英語学習を考える−」北大路書房, pp.37-55. |