特集 学修者本位の教育の実現、学びの質の向上を目指した大学教育のDX構想(その3)

デジタル変革に必要なこと
〜東日本国際大学の経験から〜

関沢 和泉(東日本国際大学 高等教育研究開発センター・副センター長)

1.はじめに

 本学は早期からLMSとして導入し、基本を対面授業としつつも、立地の問題から非常勤をお願いしづらい分野を中心にeラーニングの導入を進めてきました。また近年「デジタルを活用した大学・高専教育高度化プラン(Plus-DX)」と「デジタルと専門分野の掛け合わせによる産業DXをけん引する高度専門人材育成事業」の採択を受け、さらに教育のデジタル変革を進めています。
 Plus-DX事業では、学内各部署に散らばる学生の学修データを統合して教育改善にすぐに活用できるようにすることを一つの柱としています。これは近年様々な大学から報告がある学修情報の利活用体制の整備であり、特異なところはありません。こうした環境整備については、導入のための導入ではなく、現場でそうした情報を実際に活用する実装のための参考となる興味深い報告も多く出ています(例えば田尻慎太郎、堀川靖子著「分権型教学IRを成立させるための構成要素」)。本学の試みで多少なりとも独自の点があるとすれば、学生が各分野で鍵となる概念をどの程度把握できているかを可視化するための仕組みの開発を進めているところでしょうか。これは英語圏では(日本で言う)レポートの自動採点(採点補助)の仕組みが早くから発達しているのを参照しつつ、類似のアプローチで、学生と教員が少ないコストで諸概念の理解の状況を簡単に(ある程度)アセスメントできる環境を構築できないかというものです。ただ、ChatGPTのような大規模言語モデル(LLM)の急速な普及は、こうしたアプローチを高度に発展させられる可能性を示すと同時に、LLMが当たり前に生活に組み込まれるようになる時代に、卒業生たちが何をどのようにできるようになっていくべきかの再検討を迫ります。
 また後者の事業では、伝統的に身体のふるまいを見て真似て学ぶことが重要である介護の現場において、身体のふるまいを計測・可視化し、より短期間で修得することができる仕組みを構築しています。
 しかし、デジタル変革においては――他の多くの変革・改革同様に――他の組織での事例は参考になるにせよ、そのまま持ってきてもシステムの導入(購入)に留まることが多く、それを避けるためには、各組織の理念と目的に照らして自らの現状を把握し、その組織固有の状況において何を何のためにどうしたいかを明確にして、具体的なステップを描く必要があります。そこで本稿では、デジタル変革を進めるにあたって見えてきた課題を共有したいと思います。

2.デジタル変革の罠

(1)「自動化すなわちデジタル変革」という罠

 デジタル変革(DX、デジタル・トランスフォーメーション)へ至る段階を、・組織において流れている情報をデジタルへ置き換えること(digitisation)、・業務プロセスを自動化し効率化すること(digitalisation)、・組織をデジタル変革すること(digital transformation)の三段階で整理する構図は広く知られています(例えば井上雅裕編著(2022)『大学のデジタル変革――DXによる教育の未来』1.2参照)。この図式は、後の段階が前の段階を前提とすることを強調します。その際、・から・への移行について、段階・を重ねればいつの日か革新的・が到来するかのように語り、まずはとにかく・までを実現することだと目標が示されることがあります。しかし、現在の業務を闇雲にデジタル化すれば良いのかといえばそうではありません。アプローチを間違えると、次の段階への準備とはならない場合があることも同時に指摘されています。
 例えば、TRONプロジェクトやIoTと通底するユビキタス・コンピューティングで知られる坂村健は、2021年出版の『DXとは何か』(角川新書)の中で、業務プロセスを自動化し効率化することにつながるように見えるRPA(Robotic Process Automation)の両義性を指摘して、次のように述べています。
 「だが本来、仕事のやり方から見直してネット連携できるシステムに変えれば、人間が行う操作をなぞらえなくても、やりたいことをストレートに実現できる。(……)こちらがDXの本筋だが、日本はそれをしないで済ますためのRPAに飛びついている。
 日本の真のデジタルは、RPAを捨てる決断をしたところから始まる。」
 つまり、RPAは、これまで人間が行い自動化しづらかったルーティーン業務(たとえばあるシステムからExcelによるレイアウトに凝った帳票を出力して、分析のために一定の加工をするといった業務が想定されます)を代替することを想定して導入されるわけですが、これらは人間が行うために生じていた業務を場合によってはやや無理をしてデジタル化することであるため、デジタルによる変革につながらず、無駄な手続きをそのまま残すだけにつながりかねないというわけです。本当にするべきことは、データの流れを地図に描き、各地で行われている業務を整理し、RPAが不要となるようなフローを構築することです(上の例であれば、帳票を作成せず、そのまま機械可読なデータを次のプロセスへ流す)。だとすれば、それは単に新製品を購入すれば良いということではなく、組織のなかでの情報の流れと生成・加工に関する深い分析と、場合によっては各部局との長い交渉が必要な作業であるということになります。

(2)「芸術活動としての文書事務」という罠

 以上のようなプロセスこそが変革に重要であることは、1963年に「情報産業(論)」という言葉により反響を呼んだ人類学者の梅棹忠夫によって1960年代にすでに指摘されていました。彼は現在『日本語と事務革命』というタイトルでまとめられている論文集において、タイプライターの発明により欧米をはじめとした表音文字圏で19世紀末から20世紀にかけて生じた事務作業(ビジネス)への革命的な変化と、その成果を複雑な書記体系を持つ日本語の世界にそのまま持ち込むことの困難から生じた停滞状況を分析しています。たとえば同書所収「文書革命の現実と将来」で1961年にすでに次のことを指摘していました。
 「一般的にいって、日本の文書事務の実情は、ほんとうは事務というようなものではない。それは、しばしば芸術活動の一種である。あるいは、ひとつひとつの文書が文学的創作にも似た、高度の知的活動の所産なのである。それは、事務のながれを管理するためのシンボルのながれという、もともとの事務の要求を、はるかにうわまわる高級な活動となっているのである。」
 つまり、今日いわゆる「神Excel」の問題として指摘されるような課題――素晴らしくレイアウトされた紙の文書を電子上で再現することを目的とした結果、データの再利用が難しくなるだけでなく業務量も増える――は、すでにこの時代にも課題となっていたことになります。今日的には、機械可読であることと人間によって読みやすいということとは別であるということを組織内で共有できるかどうか。他の媒体(紙)で訓練された目線からすれば(相対的に)見栄えが悪いことを許容できるか(かつてヨーロッパで活版印刷術が使われ始めた時、当初は手書き写本のレイアウトや書体を真似していました)どうか。さらには「投下した労働(手を動かした数)が多いほど勤勉に働いた証拠である」という評価基準の変革も課題となるかもしれません。

3.教育はデジタル変革を許容できるか

 加えて、英国政府のデジタル化に尽力した人たちはイノベーションという罠――デジタル変革とは何かあたらしいことをすること(イノベーション)であると考えてしまい既存業務の変革に繋がらない――をあげています(アンドリュー・グリーンウェイ他、岩嵜博論監訳(2022)『PUBLIC DIGITAL――巨大な官僚制組織をシンプルで機敏なデジタル組織に変えるには』)。結果として、既存業務の変革を要求しないイノベーションは、デジタル以前の組織運営を続ける組織でも奇妙に同居しうるということにもなります。
 しかし、デジタル変革は、より根本的な課題を、高等教育に限らず、教育機関全体に突き付けています。
 ディプロマ・ポリシーからさかのぼって各授業を設計していく手法は伝統的なウォーターフォール型の開発手法です。それに対してデジタル変革は一般にまず作成・公開し、その改良を短いサイクルで重ねるアジャイル型の開発手法と相性が良いとされ、上述の英国政府のデジタル化プロジェクトでも活用されました。この2つの手法には根本的な考え方の違いがあります(デイビッド・ファーリー、長尾高弘訳(2022)『継続的デリバリーのソフトウェア工学』)。
 「ウォーターフォールスタイルの思考は、『十分に考えれば/仕事すれば、最初から正しい結果が得られる』という前提からスタートします。
 アジャイルの思考はこれを逆転させます。私たちは間違うことを避けられないという前提からスタートするのです。『私たちはユーザーが望むことを理解できない』、『最初から正しく設計することはできない』(……)」
 そのため、間違いが起きては困るような伝統的な公共工事には向かないとされるわけですが、教育はどちらでしょうか。真剣に教育のデジタル変革に向き合うと、そのような問に直面します。組織として(国として)この問に一定の態度を決める必要があります。


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