特集 生成AIを利活用した授業等の紹介と今後の授業の在り方を考える
デジタル革命の象徴になりつつある生成AIの出現に、国内外で大きな反響を呼んでおり、日々開発される情報技術の下、「規制」と「利用」の在り方が議論されています。
生成AIで人命の軽視、人権の侵害に使用するなどの行為を制御することは当然ですが、生成AIを生きとし生けるものの幸せに役立てられるかどうかは、正に人間の叡知に期待するところ大でして、真理の探究を進める大学教育においては、新しい技術を使いこなしていく知的活動を止めることはできません。むしろ、使いこなすことを支援する教育や研究の在り方を開発していくことが重要と考えます。
そのような観点から、授業で生成AIを利活用した学びの一端を紹介する中で、学びを効果的に支援する授業の在り方を模索することにしました。
山中 司(立命館大学 教授)
ChatGPTの登場から1年が経ち、世間は生成AIの登場による「激震」から落ち着きを取り戻しつつあるように思います。皮肉にも、大学における生成AIの拡がりはイマイチで、フル活用している大学生は一部に留まっているようです。したがって当初懸念されたような生成AIによる「ズル」が散見されることにはなっておらず、このことに胸を撫で下ろしている大学英語教員も実は少なくないのかもしれません。
しかし、これは一時の過渡的な状況だと思っています。ビジネスセクターでは生成AIを積極的に取り入れ、大きく生産性を向上させる事例が数多く報告されており、新たな「デバイド(格差)」が生まれつつあります。さらに英語学習に目を向けると、生成AIを活用して英語を独学で効率よく学ぶビジネスパーソンは着実に増えつつあります。自分にとって最適なレベルのテーラーメードのTOEICの問題を生成AIに出してもらったり、ChatGPTやその関連アプリを相手にスピーキングの練習を隙間時間に行ったりするなど、これまでになかった方法で英語を学び、英語力を着実に伸ばしている例も散見されています。
またもう一つ、現在の大きな生成AIの技術トレンドとして、letter(文字)からsound(音)へという大きな展開が見られます。これが意味することとは、生成AIがこれまで対応していた、英語を「読む」・「書く」場合、つまり非同期における場面のみならず、「話す」・「聞く」のような同期型のコミュニケーションにも適用されつつあることを意味します。デジタルと相性の良い生成AI技術をフル活用することで、少なくともオンラインでの会議などにおいて、我々はストレスなくそれぞれの母語でコミュニケーションし合える日が着実に近づきつつあります。
こうなってくるとますます、「ではなぜ私たちは英語を学ぶのか?」という疑問が一層突きつけられるように思います。テクノロジーによるサポートが24時間365日、しかも大変廉価に得られる状態で、私たちはいわゆる「自力の」、「生身の」英語力をどこまで高める必要があるのでしょうか。あるいは必要がなくなってきたのでしょうか。本稿ではこの問題について取り上げ、読者の皆さんと考えてみたいと思います。
議論の前に、まずは筆者の立場を明らかにしておこうと思います。巷でよく言われるような、生成AIの登場によって、もう英語教育はいらないであるとか、英語教員は不要といった論調にはいささか無理があると思っています。英語教育が根こそぎなくなってしまうことには個人的に反対ですし、やはり英語の先生も、英語を学ぶ教室などの場も引き続き重要な役割を果たすと考えています。
しかし、今のままの猫も杓子も英語を学ぶ状態、小学校から大学までノーチョイスで英語に関わり続ける時代は、そろそろ終わりにするべきだと考えています。やりたくもない英語を学習者に押し付けるのは教える側にとっても不幸ですし、モチベーションの観点からも、時間やお金のコストという観点からも有益だとは思いません。また、個別最適化学習を得意とするAIを前に、一斉授業という形で、既存の教員がどれだけ「教える」ということにこだわり続けられるかは甚だ疑問です。
そして生成AIの登場は、英語教育に良い意味での外圧となって働き、その質を大いに高めることに貢献できる可能性があります。これは筆者が声高に叫びたい点の一つです。
昔から学習に「ズル」はつきものです。宿題を親にやってもらったり、先輩が使ったものを流用したり、はじめから答え丸写しで問題を解いたりと、ズルは生成AIだけに与えられた特権ではありません。しかし生成AIを使えば、そうしたズルを極限まで効率良く行えることもまた確かです。
つまり、学習者にとって、その課題やタスクが自分にとって有意義に思えないのであれば、生成AIを使ってそれを「適当にやる」でしょう。自由社会ですから、生成AIをいくら使うなといっても、テスト等の特殊な環境を除いて、基本的にそれは学習者の判断に委ねられています。つまり生成AIの登場によって、これまで当たり前のように学習者に与えられていた宿題や課題、タスクやワークが見直されることになります。早い話が、右から左に生成AIを使ってやって済むようなものであれば、多くの学習者はそうする誘惑に駆られるわけです。安易にズルするか、自力で取り組むか、AIを活用しつつも自分の英語力に資する使い方をするか、そのためのモチベーションは与えられた課題の質に大きく左右されることになるでしょう。良い意味で課題が鍛えられ、淘汰されていくのだと思います。そしてこれは、教育にとって確実にプラスになります。なぜなら、とても意味があるとは思えない、ただの苦行と変わらないような課題に、学習者が無意味な時間を取られないようになるからです。
前置きが長くなりましたが、これからも英語教育が果たして必要かどうかを議論する上で、以降ではこれまでに生成AIが成し遂げたことを概観し、それらのインパクトについてまずは考察したいと思います。その後、生成AIでは成し遂げられない点について考え、筆者なりの結論に至りたいと思います。言うまでもなく、生成AIによって成し遂げられないものにどれだけ読者の納得感があるかどうかに、英語教育の存亡はかかっているわけです。
生成AIが成し遂げたこととして、本稿では大きく2つ指摘しておきたいと思います。「①ある種のシンギュラリティの獲得」、「②母語の復権」です。
「①ある種のシンギュラリティの獲得」から見ていきましょう。シンギュラリティはカーツワイルによって広まった特異点を表す用語ですが、簡単に言ってしまえば、AIが人間を凌駕する、その時を意味します。SF的な怖さをも感じさせますが、カーツワイルはそれが近未来に必ずやってくると論じます[1]。学者によってこれがいつ来るのか、近いのか、遠いのか、種々議論があるところですが、実は言語という点において、特に外国語においては、シンギュラリティは達成されたと見做してよいのかもしれないのです。
私たちは第一言語、すなわち母語では、特に文法や語の活用など、誰から教えられることもなくほぼ完璧に身につけてしまいます。これを言語学は「母語話者の直観」と言いますが、第一言語以外で、この直観を得ることは極めて難しいと言えるでしょう。日本人の英語ができない理由は、日本人の勉強が足りないからではなく、言語的センスがないからでもありません。単純に母語話者が持つ直観を会得できないからに他なりません。いつかはネイティブのように…というのは残念ながら蜃気楼でしかないのです。
しかし、生成AIは学習者が持ち得ない母語話者の直観を持ち得ます。直観を持っているというよりは、母語話者によって産出された限りなく膨大なデータを駆使しているため、母語話者並みの精度が出るのです。これは一人の学習者が生涯かけて触れることのできる言語データを軽々と凌駕するものであり、もはやAIの出力を真似した方が、自分で何とかして編み出す外国語表現よりも優れてしまっているのです。
「②母語の復権」は、生成AIとのやり取りでは、母語を用いて外国語の出力を得ることができる、つまり、外国語学習における母語の使用に大きな活路が見出されていることです。
私たちにとって一番思考や感情が乗ってくる言語、それは紛れもなく私たちの第一言語、多くの日本人にとってそれは日本語となります。中高の英語の授業などではオールイングリッシュがもてはやされますが、先に述べたように、オールイングリッシュで授業をしてみたところで、母語話者の直観を持たない日本人の英語では限界があります。繰り返しますが、これは良い悪いではなく、仕方のないことです。限られた英語力で教員や学習者が必死に頑張ってみたところで、今度は肝心な「内容」が薄くなってしまうのです。これを本末転倒と言わず何と言うのでしょう。
機械翻訳をはじめ、生成AIの優れたところの一つは、日本語でプロンプト(命令)を出しても、英語で返すように指示すれば、それを直ちに英語で返してくれるところです。つまりここに言語の壁はもはやないのです。「これって何て英語で言うのだろう?」という問いに対し私たち日本人は自分の最も得意とする日本語で入力し、その回答を自らの外国語能力を超えたレベルで手にすることができるのです。無理して英語で考える必要もありませんし、逆に日本語の機微を、英語表現の中に実現していくことができるのです。こうしたことを行うには、これまでは相当高度な英語能力が必要でした。しかし、生成AIを用いることで、一足飛びにこれができてしまうのです。
それでは日本人の英語使用は、これでバラ色なのでしょうか。言語の壁は取り払われ、テクノロジーさえ使いこなせれば、もはや外国語学習は不要と言えるのでしょうか。
残念ながらそうとは言えません。少し専門的に述べてみたいのですが、CEFRという言語(外国語)能力を記述する枠組みがあります。詳細は省きますが、筆者も加わった共同研究(寺内ほか 2024)[2]では、大学までの英語教育が目標とする英語レベルはCEFR B1レベル(英検2級程度)であるのに対して、実際に企業がグローバルビジネスを展開する際に社員に求める能力はCEFR B2レベル(英検準1級程度)以上であり、CEFR B1とB2には容易には超え難い、「壁」と言ってもよいような大きな跳躍があることが分かってきました。
B1レベルとB2レベルの最大の違いは、そこに介在する相手の存在です。例えばグローバルビジネスと言っても、一定程度「パターン」や「型」が存在するような英語でのやり取り、例えば、物品の発注や受注のような業務は入社まもない社員でも十分対応できます。交渉といっても値段の交渉や支払いの催促など、十分想定のできるやり取りであって、これらはB1の英語力があれば十分にこなせます。
ところがB2以上は、予め想定できないような相手の話題やその複雑性に対し、適切に応対しやり遂げる能力が求められます。ご想像の通り、これらは単なる英語力だけでどうにかなるものではありません。会社に損害が出かねないリアルでシビアな現実の中、それぞれが持つ人間力や教養、経験や知識、その他ありとあらゆるものを総動員して、自分なりのやり方を確立できなければ到達できる地平ではないのです。業務内容や役職によって期待される内容は千差万別であり、これだけやっておけばOKといった甘い世界では決してありません。筆者らがインタビューさせてもらったグローバルに活躍されているビジネスパーソンは、強烈な原体験や悔しさなどをバネに、時に焦り、時に割り切る中で、我流でそれぞれがこうした域に到達していました。一つ一つのストーリーに深く納得させられたのと同時に、これは皆が皆できるものではないなと痛感しました。
もうお分かりになるでしょうか。いわゆる高度な英語力、筆者はそれをCEFR B2以上と想定しますが、こうした領域では生成AIだけを用いても不十分なのです。一般的な、誰でも思いつくような当たり障りのない受け答えはこのレベルには期待されていません。自分にしかできない、味のある、人間的魅力に裏打ちされた言語表現ができることが、B2の壁を超えた人間だけが見ることのできる風景です。
反対に、B1レベル以下であれば、極端な話、AIが出力する英語に大いに頼ってもよく、また頼った方がよいかもしれないのです。
肝心なことは、自分は英語をどの程度のレベルで使えるようになりたいのか、闇雲な理想論ではなく、現実的なニーズに則った付き合い方が必要だということです。生成AIは、本当の意味で英語教育のパンドラの箱を開けてくれたのかもしれません。
参考文献 | |
[1] | レイ・カーツワイル(2007)『ポスト・ヒューマン誕生』NHK出版 |
[2] | 寺内一ほか(2024)『ビジネスコミュニケーションのための英語力』朝日出版社 |