文学の情報教育
国語教育と情報教育
原 國人(中京大学文学部助教授)
以下の記述は、私の担当の講座の中の「国語教育」及び「国語科教育法」の授業を前提としていることはじめにおことわりしておく。
1.問題の所在
先ず、次の3点を挙げることができよう。
- 小・中・高等学校における「国語科」の指導における情報教育の実態
- 大学における「国語教育」「国語科科教育法」における情報教育の在り方
- データベースの構築
この3点に注目しながら現在の私の課題について論述する。
2.「国語科教育法」の持つ特性から
教科教育法は、教員免許を学生に付与することを前提とした、教育技術を研鑽させるための科目であることはいうまでもないが、情報化の進展は小・中・高等学校の教科指導の実際に様々な影響を与えており、AV教室やコンピュータ教室の設置、校内LANの構築など教育の現場での教育機器の利用に関する変化は大く、それにともなった指導法の開発にも目覚ましいものがあるといってよい。たとえば、「古典」における「有職故実」関係のVTR資料の活用あるいは古文読解のためのソフトの開発や語法・文法のタスクのためのソフト開発、また、教材の背景となっている「風土」の紹介資料、「詩」の鑑賞における初読の感想を手紙の形にした生徒間におけるのメールの交換や、「作文」の推敲指導におけるワープロ機能の利用、さらには単元学習における学習成果を新聞や冊子にまとめる際の編集機能の利用はもちろんのこと、その際の学習材としてのCD-ROM等の利用など、旧態依然の授業も多いが、様々な授業方法が開発・展開されつつあることもまた事実であろう。こうした「国語科」における情報機器の利用が特殊なケースであるかと言えば決してそうではなくて、「特別活動」における<進路>の分野での様々な職業選択の可能性を探る学習における職業に関するデータ検索としてのコンピュータの利用など教育現場での情報利用は相当進んできている(多くの実践事例を挙げることができるが、例えば東京都足立区立蒲原中学校の実践を見よ)。
こうした現場の実態に対応できるだけの能力を持った学生を育てなければならないという要請に応えるかという現実的な問題がある。
3.「国語教育」の持つ特性から
おそらく、ワープロ・コンピュータの普及は日本語のスタイルに相当大きな変化を生むに違いない。その変化の方向はまだはっきりとは見えてきていないが、「漢字」の書体の問題はいうに及ばず、機器のもつ多種多様な文例の利用による文章表現の類型化、さらには複写機能の多用による饒舌。あるいは、携帯電話の普及、PC通信の拡大は、直接対面し会話をすることに苦痛を感じ、人間関係を構築することの苦手な今の子供たちの生きる力をさらに阻害しているのではないかということも指摘されていることであって、機器の陰に隠れて初めて自分を語ることができるといった奇妙な現象が生じている。このような実態がもたらすスタイルの変化はおそらくは毛筆からペン・鉛筆に筆記具が替わったときに生じた変化に勝るとも劣るものではないと言う予感がしている。
また一方で、「国語教育」が過去における国語史を踏まえて成立していることはいうまでもないが、今後のあるべき「国語」の姿を模索し、その上に立って「国語教育」を構築しようとしたときには、このような変化が「国語」の保有する権威性・権力性との間にどのように折り合いをつけていくかが課題となってこよう。確かに、<言語>は変化するものであるが、どのような方向への変化を高度情報社会の到来がもたらすのか慎重なリサーチが必要となると同時に、機器への抵抗感をなくする教育・訓練と同価値にあるいはそれ以上の比重を掛けた日本語習得の教育・訓練を実施する場としての「国語教育」の在り方が模索されなければならなくなってくる恐れがある。
4.学生の実態から
端的に言えば、本学の学生は概ね勤勉であり、比較的向上心もある。ただ情報あるいは機器に対してどの程度のリテラシーがあるかとなると、極めて個人差が大きいといわざるを得ない。その差異は単に情報機器の操作ができるとかできないとかの問題ではなく、情報処理能力・「価値観」の問題に見られるといってよい。確かに思想・信条の自由、学問の自由は絶えず獲得し続けなければならない。しかし社会の構成員としてというよりも人間としての尊厳を獲得するための基本的な訓練の不足がもたらす「価値観」の未成熟が情報の洪水に対応できない実態を産み出していることもまた否定しがたい事実であろう。
最初にも断ったように私の担当している2つの講座は教職を志望する学生ためのものである。
ところで、「国語科」の教育に関しては、「国語科」のでき始めのときからの未だに解決のついていない問題がある。それは「国語科」という教科目が国語国字教育に留まらず、どうしても「文学」に関わる部分を背負っていることから生じる問題であり、「文学」とは何かなどという問題提起を今更するまでもなく、そこから導き出されるのは「人間としての在り方・生き方」の問題であることは議論するまでもあるまい。言い換えるとそれは即「価値観」の問題ということになる。
例えば、高等学校「古典」の授業の一方法としてディベートを用いた授業を構築するための指導案の作成を課題とする。論題は「『源氏物語』における桐壺帝は有罪か」。ディベートの技術論を云々しているだけでは不十分であり、この問題に対する生徒理解に基づく予想されうる生徒の問題に対する理解度や反応は勿論のこと、恋愛・結婚・ジェンダーといった問題から天皇・皇権・政治といったことまでも視野に入れた上での生徒のディベートに向けた事前の学習のための様々なデータとそれへのアクセスについて用意することを考慮しなければ、指導案の作成は不可能になる。このような条件を踏まえた指導案作成の過程においては、必然的に作成者の「価値観」が露にされることになる。従って学生たちの一人一人がどのような「価値観」を個性に合わせて自分の内面に成熟させていくかが問われることになる。はっきりいってこの場面になるとそれは学生一人一人と私との格闘といってよい。現代の最先端の営みであるはずの情報教育も結局は人の問題ということに帰結する。
5.データベースの構築について
小・中・高等学校においては貴重な授業が毎日実践されている。その一つ一つに指導案とその実践記録があるわけではないが、校内研修や研究指校としての研究授業の記録が残されているが、それらの大部分は死蔵されるままになっているといってよい。確かに東京都立教育研究所のTOMSISなどこうした実践記録をデータベースとして構築しようとした試行はあるが、財政難等の理由でままならないままになっているのが現状であってこれからの課題はまず全国ネットの実践記録のデータベースの構築を図ることであろう。
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