巻頭言
古浜庄一(武蔵工業大学学長)
現在、私共の実施している教育は紀元前数世紀のギリシャの科学に始まると見られている。その目標は社会大衆の科学的、民主的幸せな世の中を実現するための教育であった。2千年以上その教育の規模は膨張し続け、社会生活の向上、科学、技術、文化、芸術の発展に大きい成果をもたらした。しかし、一方では民族間や宗教の争いは益々悲惨化し、それを助ける兵器が開発されている。また、権力や商業活動によって貧富の差は拡大し、結局初期の目的と反する人間社会が形成されてきたと考えざるを得ない。現在の教育はその傾向をむしろ助ける面もある。私共はその欠点を補い、理想的社会や人間像を構築し、その実現への教育に方向を変えることが大学改革であると考える。そのためにプラスになるものを助長し、マイナスの部分は早期に改善することを情報教育にも適応する必要がある。米国など先進国に遅れじと、またコンピュータ業界の商業戦略に乗るかの如き情況には冷静に対処すべきで、まずその目的・方法を研究すべきであろう。例えば次のことを訴える。
科学的や経済的計算はコンピュータの本来の機能であり、他の手段では不可能な成果が続々と現れており、その基本原理の教育は絶対必要であるが、周知のように不正確な仮定から実際に合わない答を出すことが多い。計算結果を絶対視せず実際を見、聞、匂、触れること、また物を作る、育てることにも同時に興味を持つ教育を要す。
遠隔地の講義が受けられる、登学しなくても受講ができるなどが確かに情報教育の特長であるが、私は現在の学生の知識欲がそれほど高いとも思えないし、書面で知識を受けることもできる。また視聴覚資料を与えることも有用であるが、教員が自ら用意することが一層教育効果をあげる。さらに学友や教員と対面しての学習に近い効果も絶えず心掛けるべきである。
誤った使用法の防止に注目しなくてはならない。例えば、コンピュータに一日向かい合って学習することは人間生活に合った活動とは思えないし、一般社会とは離れた存在になるかもしれない。スポーツや文化、芸術などを奨励し、人間として心身共に正常な社会人としての成長を促すことも忘れてはならない。
遊戯のためや私利・私欲の助長でなく、進んで公共福祉に貢献することを生き甲斐とする人物を育てる教育がまだ確立されていない。キリスト、釈迦やソクラテスのように一命を顧みず、悪に立ち向かい善導に捧げる教員は望めないので、その方向へのコンピュータによる教育改革はできないものかと夢のような考えをもつ。しかし、夢ではないかもしれない。多くの宗教が各宗旨に沿った成果をあげている。科学的・民主的理想社会へのソフトウェアを期待する。
以上、21世紀の最重要の教育分野の一つであるコンピュータおよびそれを応用した情報の教育については、目下手探り状況と言える。使えれば良いのか、それとも、基本仕組みを教え、各分野の応用の詳細までは無理であるが、どこまで理解させるか、これについて十分に有効な研究、討論を要する。