巻頭言
櫻井 毅(武蔵大学学長)
高度情報社会の到来は大学にとって情報教育を緊急かつ必須のものとした。各大学にとって−とりわけ私立大学にとって−設備の充実と必要な指導体制の確立および人員の確保は頭の痛いことであるが、それを延ばすことができないのが現状である。その点で文部省の補助金の増額とその内容の多様化、そしてその点に関わる私立大学情報教育協会の指導と斡旋には深く感謝するところである。
さて、武蔵大学はミニコンから出発して汎用機に端末を付けて細々と授業や実習を行っていた1980年代の状態が第一期とすれば、1993年から始まる第二期の現在は、ATM,FDDIを中心にネットワークでつながった分散処理に姿を全く変えてしまった。インターネットもTRAIN経由でそのときから始めた。折から慶應義塾大学の藤沢キャンパスなどが開学して何年か経ち、そこのシステムが少しずつ関心を集め始めていた。我々はそれらを訪ね見学し詳細な説明を受け、さらに様々な情報を集め識者に意見を求め、その方向を決定したのである。その後のクライアント・サーバーの発展とそれを利用したネットワークの展開を考えると、その選択は誤っていなかったと思う。いずれにせよコンピュータ環境の劇的変化もあってコンピュータを利用する学生はこの5年間に飛躍的に増えた。ワープロ、メール、それにWeb上での検索が主なところと思うが、5年前のことを思うと隔世の感がある。
我々は当初から情報教育の基礎は情報リテラシー教育と位置付けたが、それは教育というよりコンピュータ・ユーザーとしての訓練であり実習であった。確かに技術進歩の絶えないコンピュータの本質を理解するためにはプログラム教育が不可欠なのかもしれない。しかし今日の時代においてコンピュータに何ができて何ができないかを理解し、そしてコンピュータを利用するために自分で動かしていく最低の技術はどんな者でも皆持っていなければならない。その観点に立って本学の情報処理教育センターは繰り返しコンピュータの動かし方について各種の講習会を開いている。また数多く設けられている情報処理基礎のような教科も同じような役割を演じていることに間違いはない。そのようなリテラシーの習得の上でコンピュータを利用した様々な講義が行われていることはいうまでもない。それは情報処理関係の科目にとどまらない。また今やソフトの発達によってそれは単なる利用にとどまるものでもない。例えば偏微分方程式の理解がなくとも、それを利用して作られたソフトの活用によってファイナンスについての数値計算の課題が解けるとすれば、とりあえずそれで十分と私は考えているのである。もちろんその点では先生方の間でも意見の分かれるところである。ただ私は文系の大学としてはユーザーに徹していいのではないかと思っている。それ以上のことは大学でなく、本人に委ねるしかないのではないかと考えるのである。
本学に限らず、一般にユーザーとしてのコンピュータの利用という点では確かに水準は上がっていると思われるのであるが、それが手段であることを忘れると問題が生じる。コンピュータ自身のもつ機能を別にしても、データの蓄積という点で、あるいはメールの利便性という点で、しかもそれがネットワークを通じて世界的に利用できるという点で、今日コンピュータの役割の重要性は計り知れないが、それが匿名性のコミュニケーションであるために対人関係を稀薄にしがちであることは無視できない。匿名性という点でいえば、それは共同体の崩壊から都市化に至る近代化の極致でもあり、個人主義の到達点ともいえよう。
だからこそ対面性ということが教育では重要になる。極端にいえば、教育とは共同体内での生活のための馴致の役割を担っているからである。だからたとえ仕事はネットワークで済ませ、後の時間はすべて個人的に使うような社会になったとしても、教育だけはネットワーク上だけではなりたたないということである。問うものと問われるものとの信頼関係こそ教育の原点だからであり、広い意味でのそのような環境の中に情報教育の位置付けも行われなくてはならないことになろう。我々の大学では、現在、情報教育にかなりの力を割いているが、反面、ゼミや演習に依然としてこだわり続けているのは、まさにその理由からなのである。