巻頭言
小原芳明(玉川大学学長)
世をあげての情報化時代である。この言葉のもとに、幼きは小学生から情報化時代への対応を迫られている。時代の動きと働きかけを受けて、私立学校のなかにはパソコン1台につき生徒 4.6人を達成させている小学校や、全生徒の家庭にパソコンを1台ずつ普及させるというネットワーク構想を持っているところもある。全私学のパソコン普及率の向上に伴い、NES(Network Education Systems)を構築していくことも可能となってくるだろう。
私立大学においても、情報化への対応は不可避な課題であり、受益者負担と応能応益の原則に従ってパソコンの普及に努めてはいる。だが、日本ならではの事情として、学生1人あたり年間平均約260万円相当の国庫補助がある国立大学と、その10分の1の私立大学との格差は歴然としていて、パソコン普及に関しても、国立大学と私立大学との格差の拡大が予測される。各私立大学は、分進秒歩で展開する情報科学分野に対応すべく、その財源確保に苦慮しており、パソコンの普及はなかなか進まない。
それだけでも頭が痛いのだが、そうしたことよりももっと解決に悩まされるであろう問題に、情報化時代に相応しい語学力と道徳の涵養がある。
情報はinformationであれ、intelligenceであれ、今後幾何学的に増加し、各界により強力な影響を及ぼすであろう。そうしたことを見越しての「情報処理」科目であろうが、その科目への先行必修として、「読み・書き」の能力がある。これは、古今東西の教育において基礎とされていたものだが、情報化時代こそ、その能力が欠けていては、活躍しようにもできないのではないか。ところが、情報化への対応を急ぐあまり、この基幹となる語学力の向上が疎かになってしまっているように感ずる。
言うまでもなく「読む力」とは情報受信能力であり、「書く力」とは情報発信能力である。世の中がどんなに便利になろうとも、情報の活用は個人の能力にかかっている。情報を読み切る力に欠ければ、情報は単なる記号に過ぎなくなる。例えば、インターネットで配信されている8割は英語で表記されており、英語の読解力がなければ、インターネット上の情報はアルファベットの羅列に他ならない。
また、双方向の情報化時代になると、テレビ・ラジオ・新聞時代のような受動態では不充分だ。自分が必要としている情報が何であるかを明確にしなければならない。What, Why, Where, When, Who,Howといった質問を投げかけなければ、当然情報は配信されない。質問もある種の情報と言えよう。自分が欲している情報を正しく表現することが情報受信にとっての基本となる。つまり、書く能力に欠けることは、情報発信もできないということになる。
さらに、情報化時代は「山彦」のように、質問を発すれば自ずと答が返ってくるというものでもないだろう。情報を持っている人が、「それを提供しましょう」という気持ちにさせるような表現でもって質問を投げかけなければ、情報はもらえない。情報発信者と受信者との間に、人と人との間に必要なマナーがなければならないことは明白である。
読む・書く能力に加えて、対人関係に必須の徳の教育はなされているのであろうか。情報化時代こそ、Reading, wRiting, moRality の3R教育であろう。