1. 社会の主導原理の変化
産業革命により、機械の力で「もの」を作ることが可能になった。さらに、作業の分業化などの能率化がすすめられ、手工業的生産が機械制工場に進歩し、大量生産が出現した。もちろん、量産された「もの」を消費する市場が形成されたことはいうまでもない。このように、社会における「もの」の殆んどが工場で生産された「工業製品」になるように経済が成長した状態が「工業社会」である。この工業社会の主導原理は一体何であったろうか。トラフ−(A. Toffler)は次のように述べている。すなわち、工業化を推進する原理は、「規格化」(Standarization)、「分業化」(Specialization)、「同時化」(Synchronization)、「集中化」(Concentration)、「極大化」(Maximization)、「中央集権化」(Centralization) が大きな社会の流れとなっていることを「第2の波」という表現を使って表している。
たしかに、この産業優先の流れのなかに「個人」という人間は埋没していったと考えてよいであろう。
人間はこの「全体の圧力ともいえる流れのなかで、いかに「個」をとりもどすかを考えることは当然のことであろう。これを可能にしたのは、経済の成長である。経済が成長し、「豊かな社会」になると、人間の欲求はどうなるであろうか。人間は自分の生活水準を向上したい欲求をもっている。この生活水準の向上という点を掘り下げると、そこには、人間の欲求が基本的なものから選択的なものへと多様化していくことを見出すのである。
人間の欲求が基本的なものから選択的なものへの変化に対して、それを満足させる社会の機能も基本的なものから選択的なものへと変化してゆかねばならない。それらをうまく対応させるには、「選択させるための情報」が必要になってくる。このように、社会のなかで「情報」行動を決める大きな要素として浮び上ってくる。すなわち、個々の人間の意思決定が社会の流れを変える主導原理となってくることに注目すべきである。
2.情報化の意味
情報化社会を変える大きな要素となってくる以上、ここで「情報」についての考え方を明らかにする必要があろう。詳しい論議はおくとして、情報については大きくニつの考え方があるとみられる。一つは、主観的に情報をとらえる考え方である。これは人間の意思決定との関係で情報をとらえるものである。
すなわち、情報とは可能性の選択指定作用をともなうことがらの知らせ」という定義づけである。換言すれば、「ことがらの知らせがもたらされて、その知らせが人間の意思決定になんらかの影響を与えたとき、はじめてその知らせが情報となる。むろん、その意思決定に対する影響はプラスの方向であろうと、マイナスの方向であろうとかまわない」という考え方である。
もう一つは、客観的に情報をとらえる考え方である。これは通信技術の発展と関連し浮上してきた考え方である。特に、無線通信技術が放送事業という形で経済社会のなかにとり込まれ、マスコミュニケーションとして発展したことが、この考え方を進めることになった。そのなかで、 「情報量」という量的概念がシャノン(C. Shannon)らによって展開され、情報理論としてその後の発展をみたことは、大きな成果とみるべきであろう。この客観的な情報の考え方は、通信技術がコンピュータをまきこんで、情報技術として進歩するとともに、大きな広がりをもっていった。そして、ネットワ−クなど情報技術のさらなる進歩と相まって、多情報社会を形成していったのである。
前者の情報についての考え方は、情報を「人間」を中心としてとらえるものであり、後者は「技術」中心にとらえる考え方である。これら、ニつの考え方はどのように関連するであろうか。マクドノウの情報概念をみながら検討してみる。マクドノウは情報について次のような図解をしている。
これをみて明らかなように、情報が形成されるには、「問題意識」と「データ」が結びつくことが必要である。もちろん、「問題意識」は人間の心のなかにあることはいうまでもない。「データ」は通信技術などの発展により、多面的に、大量に収集することができる。この「デ−夕」は前述の客観的な情報と同じ考え方とみてよいであろう。問題点は、デ−タが増えてゆくとき、それらを受けとめる問題意識が充分に人間のなかにあるかどうかという点である。大量なデー夕のなかから、自分にとって必要なデ−タがどれであるかを見分けることといってもよい。情報化の進展する社会のなかで、いかに自主性をもって対処してゆくかが大切なことである。
1.情報技術の発展の目標
「情報技術とは何かについては種々論議があるが、大きくとらえると、それは通信技術とコンピュータ技術の融合した技術といえよう。もちろん、それを支える基礎技術として、マイクロエレクトロニクス技術、デジタル技術など多くの技術があげられることはいうまでもない。今日、話題となっているマルチメディアなどは、光ケ−ブルによる通信量の飛躍的な増大により、画像処理などが可能になった融合的技術の一つの例であるとみてよいであろう。情報技術の発展をふまえて、その目標をみると、次のようなことが指摘できるであろう。
ア.マルチメディアを含めたネットワ−クの展開
コンピュ−夕のネットワ−ク利用はコンピュ−夕の処理能力と通信技術が融合、システム化された利用法であった。これを契機として、コンピュータ技術は「情報技術」として位置づけられ、その領域を拡大していった。このネットワ−クにより、情報の蓄積、検索、伝達、処理、提供の機能が、時間的、空間的制限を超えて著しく向上した。さらに、光通信により、これまで難しかった画像処理が可能になり、マルチメディアを含めたネットワークの確立が急がれている。最近においては、これらのネットワーク化の動きは、ネットワーク同士をネットワークする「オーブン化」の傾向が強まり、地球規模にまでその範囲を拡大しつつある。
イ.人間への限りない接近を目指す人工知能の開発
人工知能(AI)は、コンピュ−夕を中心とするシステムに、人間により近い能力を作りだそうとして開発が進んでいる。そして、それらを通じて人間の知的能力の解明を目指している。現在、用途が限られているが、かなりのエキスバートシステム、機械翻訳システムなどが実用化されている。これら、それぞれの能力を向上させてゆくことはもちろんである。しかし、人間の脳においては、いろいろな処理、たとえば、音声、画像、文字などを総合化して処理を行っている。AIにおいても、個々の技術を総合化し、より人間に近いAIを進めることが大きな目標となっている。
ウ.ヒューマン・フレンドリーなインターフェイスの追及
情報技術の利用者は人間であることはいうまでもない。換言すれば、情報技術は、マンーマシンシステムとして機能するのである。したがって、そのシステムで、人間と機械をどのようにうまく結合し、融合し、よりよいシステムとするかが目標である。情報技術のうち、コンピュータについても、バーソナルコンピュー夕、ワークステーションといった高性能、低価格なより個人向けの機種が開発されてきた。こうなると、技術的な意識なしに、個人差なしに機械と対話できることが必要になってくる。このためには、人間への接近を目指すAIの総合化した、マルチメディアを利用した、人間同士の対話の状態に近づくようなヒューマン・フレンドリ−なシステムの開発が要請されるのである。
2.情報社会の素描
ア.人間、社会的見地からの素描
経済が成長し、「豊かな社会」となり、所得配分も平準化が計られ、消費支出も随意支出の部分が増加してくると、個人としての経済的自由度が向上してくる。また、生活時間についても、拘束時間が減少し、自由時間が多くなってくる。結果として「個人」が尊重され、人間と人間との関係が、「個」を集めるというよりも、「間柄」を重視した関係ができあがってくる。一方、社会的には、工業社会のなかで押し進められた一元的な量的拡大は、規模の利益を求めて「集中型」システムを生んだ。しかし、今日ではむしろ、規模の不利益の顕在化により、エネルギー・システムや都市システムについて「分散化」の傾向がみられている。もとより、集中型システムには、それなりのメリットを有しており、今後は、集中・分散の双方の調和のとれたシステムが求められ、その実現に向っている。
工業社会の圧力から解放され、「自由」を得た人間は、選択的社会を形成し、情報が重要な要素となることはすでに述べたところである。結果として、それらの情報の生産、流通、消費という活動が盛んになってくる。これを担当するのが社会のなかでは「情報産業」である。したがって、情報社会のなかでは、情報産業が産業群として大きく成長してくる。
イ.情報技術的見地からの素描
超高速の情報インフラストラクチャ−が整備され、それをふまえ、ネットワ−クはグロ−バル化してゆき、LANの相互接続、ネットワーク・コンピューティングの実行、そして、画像、音声などのインテリジェント・ネットワークも進んでくる。それらを総合化して図示すると次のようになると考えられる。
このように、ネットワークがオフィスや家庭につながれ、さまざまなサービスが自由に使えるようになるのが情報技術に支えられた情報社会ではなかろうか。
イ.シングルメディアからマルチメディアへ
いわゆる「第一世代」では、データ処理システムはデータを処理し、ワ一プロやテレックスが文字を処理する。電話が音声を処理し、コピー機やマイクロフィルム機が画像を処理する、このように、別個に処理が行われていたが、情報の「デジタル化」が進み、標準化が進むにつれて、これらの個別的なメディアは総合化される機運が盛り上ってきた。すなわち、「デジタル」という共通の基盤のうえに各処理がネットワーク化されてきたのである。たとえば、デジタル化された文書が写真、さらに音声の入ったライブのスブレッドシートの文書を、ワークステーションの画面で利用することも可能になった。
これら複合的な情報を含んだ文書は、コンピュータ上にファイル化され、紙に出力することなく、検索、変更をしたり、他者と交換したりすることができるようになった。
いずれにしても、以上の諸点は、コンピュータの原理を変えることなく、その機能を拡大したものである。さらに、コンピュータの処理原理であるデジタル処理がその基礎になっていることは見落してはならない。
2.コンピュ−夕・システムの脆弱性
情報システムは発展の一途をたどっていることは上記の通りである。しかし、その中核はコンピュータである。そして、情報システムが発展すればする程、コンピュータについての信頼性が要求されてくる。今、もっと、コンピュータについての本質的理解が必要ではなかろうか。換言すれば、「コンピュータ限界論」なるものを考える必要があろう。
華麗なコンピュータの発展に目を奪われることなく、とかく忘れがちなコンピュータの脆弱性について検討してみると、次の諸点が列挙できるのである。
ア.知的技術による機械化の特徴の理解
1.情報社会の光と影
情報社会では、前述の情報社会の素描で画いたように、何時でも、何処からでも、誰でも、直ちに必要な情報が入手できることを目指ざしている。それを支えているのが、コンピュータとマルチメディアなどを含むネットワークをもつ情報技術である。そして、この「便利さ」を生み出すのが情報である。換言すれば、情報社会とは情報が高度な価値をもつ社会であるといえる。「情報を制する者は社会を制す」とすらいわれている。その反面、情報は有形の「もの」にくらべ、「もろさ」をもっている。たとえば、コンピュータ関連犯罪、プライバシー侵害、データやプログラムの不正コピーなどがそれである。
情報社会には「便利さ」に代表される光の部分とともに、「もろさ」に代表される影の部分があることを見落してはならない。近年、新聞などでとりあげられた事例をあげると、次のようなものがあげられる。(資料編新聞記事参照)
2.情報と人間とのかかわり合いの問題
情報社会に生きる人間にもいろいろな問題を投げかけている。まず、人間のなかにある情報処理機能が機械化されることによって、「知らせる」という働きが主観的なものから客観的なものへと変化したということである。この情報処理機能の機械化は、情報が多量に複製されることによって、その流通が容易になったばかりでなく、拡大されるようになったことに特性を見出すことができる。この情報の大量流通とそれに伴う消費は、物量的な認識を伴わないために情報が氾濫する結果を招いた。こうしたなかで、情報の価値は、それを利用する個人的な問題意識によって律せられることになり、そのために価値が多様化する傾向が生ずることになった。
また、多量の情報流通によって情報の選択性が増大することで、共通的価値観が生れにくくなってきた。情報活用の問題は、それを利用する人間の主体性にかかわってくることになるし、その正しいあり方が問われることになる。
情報の利用や情報操作のあり方を誤ると、特定の情報に支配されることになったり、誤った情報を正しいものと思ったり、不適切な情報を無批判に受け入れることが起こってくる。また、情報を巧みに利用して、自分だけの経済的な利益のみを追求したり、法を犯さなければどのような使い方をしてもよいと考え行動することも起こってくる。その結果、情報とその利用の正しいあり方が著しく歪められることになる。そして、そのことにより、人間としての主体性が喪失されるばかりでなく、社会秩序が崩壊する危険性を持っている。
なかでも、情報社会の特性であるコンピュータやネットワークによる情報技術の著しい発達は、われわれ人間に対して、ブラックボックスに対するような不安やテクノストレスを増大させる結果を招いている。また、個人の情報が処理されることによって、人間としての基本的人権が簡単に侵害され易い結果をもたらすことが問題になってきている。そして、情報操作如何によっては個人生活が類型化されるようになる。情報のネットワークなどにより、対人関係に大きな変化が見られる。それは、機械との対話による没人間的関係である。その結果、人間関係が著しく疎外されるようになりつつある。
このように情報社会では、これまでの社会にはなかった様々な新しい問題に直面するようになってきている。われわれは、情報社会における光の部分を助長するとともに、影の部分を可能な限り抑止しこれを予防することを目指すものである。こうした問題の解決を考えるとき、必然的に人間の存在とその倫理のあり方を問わざるを得なくなってくる。